『日本史における日本万国博覧会の意義』            H25.4.23
                       吹田市議会議員 山口 克也

芥川龍之介の「藪の中」--- 見る人によって、日本万国博覧会の評価はいろいろ

●1851年に第一回がロンドンで行われた、万国博という、当時の世界最高水準の技術や芸術を一堂に集め披露するシステムが、フランス、オーストリア、ベルギー、アメリカ、カナダを経て日本にたどりついた。
●会場には未来的パビリオンが建ち並び、会場そのもの、空間そのものが、モニュメント、出品作品となる点で、万国博の歴史のなかでも際立っていた。
●パビリオンでは光・水・音・映像などが最新技術によって効果的に操作され、当時の技術の先にある未来の姿が観客を魅了した。
●ほとんどの日本人が、パビリオンのホステスなどの外国人と、生まれて初めて直接会うという体験をした。
●新しい生活様式が生まれた。携帯電話・歩く歩道・ケンタッキーフライドチキンなどのファーストフード・洋式便所・フランスパン・カジュアルウエア・缶コーヒー・空気膜構造のドームなどが日本人の生活に入ってきた。
●60年代の「所得倍増計画」に次ぐ、文化政治の仕掛けとして、すなわち高度成長の成果を目に見えるものとして表現するために「オリンピック」と「万博」が行われ、その成功体験から沖縄海洋博、つくば科学博、大阪花博、愛知万博、さらには多くの地方博が行われ、「高度成長の成果に酔った」万博ブームの時代を生んだ。
●70年安保闘争に対する絶好のカムフラージュ。
●6400万人が情報コントロールによって狂奔し、猛暑の中辛抱し、長蛇の列に並んで待つという経験をしただけ。

等々、人によって、視点によってさまざまな評価が可能。評価の低い人もいる。しかしながら、日本の歴史、特に日本と、東洋よりも広い世界との出会いという観点からは、「日本万博博覧会・大阪万博」は極めて重要な出来事であったといえる。そこで何が起こったのかをまとめるのは並大抵でないが、当時の知識人が多く参加した「テーマ」の設定という視点に絞って歴史的意義について分析を加えてみたい。

何がテーマ(目的・意義)だったのか

それまでの万国博覧会には、ロンドン・パリ・モントリオールなど都市の名前が冠されていたが、この万博の名称は日本万国博覧会であり、大阪万博は略称で正式名称ではない。これは、この万博が1940年に「紀元2600年祭典」の最重要行事として、東京でのオリンピックと同時に開催されるはずであった「日本万国博覧会」の復活であることを意味している。(当時の前売り券で大阪万博に入場できた)

欧米列強による植民地支配の時代、黒船の来航をうけ、存亡の危機を経験した日本は、富国強兵に成功し、日清戦争、日露戦争の勝利をへて、国や国民として次のレベルの欲求、文化も含めた一等国として世界に認められたいという欲求を高めていた。当時の日本は「東西文化の融合」をテーマとした万国博を行い、世界に日本精神の真髄を伝え、国際平和をもたらしたいという願いをもっていた。(当時の記録に書かれている言葉・覇権主義的とも読める)
 
日本の敗戦とサンフランシスコ講和条約による国際社会への復帰のあと、日本は数十年来の悲願であるオリンピックと万国博を行うことを国際社会から認められる。日本は、世界に向けて、全人類に向けて、日本からのメッセージを発信することが出来るようになったのである。

日本からどんなメッセージが発信されたのか。まず、テーマ(主題)委員会の作成した基本理念の主要部分を見る。「人類の進歩と調和」という有名な言葉につづき、このように述べられている。

「世界の現状をみるとき、人類はその栄光ある歴史にもかかわらず、多くの不調和になやんでいることを率直にみとめざるを得ない。技術文明の高度の発展によって、現代の人類は、その生活全般にわたって根本的な変革を経験しつつあるが、そこに生じる多くの問題は、なお解決されていない。さらに世界の各地域には大きな不均衡が存在し、また、地域間の交流は、物質的にも精神的にも、いちじるしく不十分であるばかりか、しばしば理解と寛容を失って、摩擦と緊張が発生している。科学と技術さえも、その適用を誤るならば、たちまちにして人類そのものを破滅にみちびく可能性を持つにいたったのである。
 このような今日の世界を直視しながらも、なお私たちは人類の未来の繁栄をひらきうる知恵の存在を信じる。しかも私たちはその知恵の光が地球上の一地域に局限されて存在するものではなく、人間あるところすべての場所に、あまねく輝いているものであることを信じるものである。この多様な人類の知恵が、もし有効に交流し刺激しあうならば、そこに高次の知恵が生れ、異なる伝統のあいだの理解と寛容によって、全人類のよりよい生活に向っての調和的発展をもたらすことができるであろう。」
 
 この言葉を読むとき、まずこの言葉が、日本人という視点を越えて、人類の類的な共同性を強く意識した、世界人の視点で書かれていることが分かる。この視点はテーマ委員会の副委員長で京都大学人文科学研究所所長の桑原武夫氏が強く主張したものである。桑原氏はフランス文学の研究者であり、国立民族学博物館の初代館長で「文明の生態史観」で有名な梅棹忠夫や、作家としても仏教学者としても有名な梅原猛の育ての親とされる。
 そして、ここで謳われている最も重要なことは、人類の困難を解決することは可能で、それを成し遂げるのは、人類の知恵であり、その知恵は人間あるところ全ての場所に存在するということ、すなわち「人類の知恵への信頼」「多文化主義」という二つの観念である。

そして日本万博のテーマの補完するものとして、四つのサブテーマが、桑原武夫や梅棹忠夫、小松左京、川添登などをメンバーとする専門調査委員会によりきめられているが、この第一のサブテーマ「より豊かな生命の充実を」の説明の中に、さらに一つの興味深い言葉がある。

「進歩と調和は両立しがたい矛盾を示すように見えるが、この二つのものを両立せしめうるか否かが、人間文明の将来の明暗を決定するものである。そして、この難問を解く鍵は、生命それ自体の尊重の中にみいだされる。」

「生命の尊重」とは何だろうか。それは、サブテーマの中の説明で、3つの点でより深く書かれている。一つ目は、人間が、人種、国籍、性別、言語、信条、身分のいかんにかかわらず平等であるということ、二つ目は、生命が武器や不十分な医療によって奪われてはならないということ、三つ目は各個人が人間としての生きる喜びを実現させなくてはならないということである。そしてこの「生命の尊重」という言葉が「人類の知恵」とともに人類に共有された時に、世界のさまざまな困難が解決するという認識、これは現在に至っても非常に重要な認識であると感じられる。

「平等」「平和」そして「多文化主義」は、戦前の日本人が、植民地主義と、帝国主義の時代の中で真に望んでいたこと、発信したかった事であり、それから数十年で世界の平和と植民地の解放がもたらされ、日本万国博覧会の時点でこれらの考え方が世界全ての人に共通に受け入れられるようになっていたこと、そして日本人が、日本人としての視点でなく、世界人としてこの言葉を発していることを人類史的、日本史的にとらえると、この変化の大きさ、重大さに大きな感動を覚える。

テーマソング、テーマ館、公式記録映画について

先に述べたように、万国博の時点で日本の知識人は世界人としての目を得ていたのであるが、一般の市民はまだ、一個人として世界との距離を感じていた。あるいは進駐軍のイメージで欧米人を捉えていた。この意識を変えたのが万国博であった。
まず、島田陽子作詩のテーマソング「世界の国からこんにちは」の歌詞を見てみる。
こんにちは こんにちは 西のくにから
こんにちは こんにちは 東のくにから
こんにちは こんにちは 世界のひとが
こんにちは こんにちは さくらの国で
1970年の こんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう

こんにちは こんにちは 月の宇宙へ
こんにちは こんにちは 地球をとび出す
こんにちは こんにちは 世界の夢が
こんにちは こんにちは みどりの丘で
1970年の こんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう

こんにちは こんにちは 笑顔あふれる
こんにちは こんにちは 心のそこから
こんにちは こんにちは 世界をむすぶ
こんにちは こんにちは 日本の国で
1970年の こんにちは
こんにちは こんにちは 握手をしよう
こんにちは こんにちは 握手をしよう

三波春夫などの多くの歌手が歌ったこの歌の歌詞をみると、日本人一人一人が、海外のひとと、出会う、友人になる、それが万国博覧会であるというコンセプトになっていると感じられる。

次いで、あまりにも有名な日本万国博覧会のテーマ館、太陽の塔、そこにどのようなテーマが示されているのかを見る。かつて、私はテーマ館、太陽の塔のチーフ・プロデューサーであった岡本太郎氏の養女、岡本敏子さん、そしてサブ・プロデューサーであった小松左京先生に直接太陽の塔に込められた哲学について伺ったことがある。小松左京は、いつものようにとぼけて、あれは映画の「太陽の季節」からきているんやなーと言われた。岡本敏子さんは、太陽の塔、芸術作品についてはね、皆さんが自分が感じられたことを仰って下さっていいのよ、と言われた。確かに、油絵でもそうだが、そこに何が描いてあるか、作家が言葉ではっきりと説明しないところに芸術作品のミソがある。それで、私は太陽の塔について、これまでも自分なりの考え方、解釈を申し上げてきた。

太陽の塔は、まずその形と土のような質感から、縄文土器、そして縄文時代から続いてきた日本の歴史を象徴している。そして、白、黒、黄色という三つの顔の色は、太陽の塔が世界の全ての人種を総合した物であることを示している。そしてその顔の表情からは、生命に関する三つの性質が読み取れる。上方の黄色い顔の表情からは“生の喜び”を、背面の黒い顔からは“生命の神秘性”を、前面の白い顔からは“生命の自立性”を私は感じる。
生命の自立性という言葉についてもう少し説明しておく。生命は周りの全ての物質・情報を受け入れ、対応していく存在である。しかしながら、全ての物を受け入れているだけでは、その生命としての同一性、その生命の存在自体が失われる。だから、岡本太郎の言葉を借りて表現すると、生命が生命であるためには、かならず、無目的に“ノン”ということが出来なくてはならない。他者に対してノンといえることが、生命が自立しているということだ、と私は考えており、太陽の塔の正面の顔のあの容貌は、生命の自立する強さを示していると考える。

そして、太陽の塔の中には、いまでも一部残されているが、生命の樹の展示があった。生命がアメーバからさまざまな動物をへて、恐竜や人間に進化していくまでの過程が、生命の樹を上方に辿っていくにつれて見えてくるというのが、万博当時の展示であった。だから、太陽の塔は、内部に生命の樹を宿す生命そのものであり、そして上方にあった未来的なトラス構造の屋根を突き破って立ち上がることにより、科学文明を突き破る、根源から立ち上がる生命の力、すなわち万博のテーマの一つである“生命の尊重”を表現している、というのが私なりの解釈であるが、いかがであろうか。

太陽の塔は、自分の存在について言葉ではなにも語らない。しかし万博当時、太陽の塔はアメリカ館、ソ連館とともに、もっとも多くの人を引き付け、魅了し、さらに万博が終了してからも、万博記念公園に立ち続け、私たちにメッセージを送り続けている。そのメッセージをどのように受け取るかは、まさに私たち自身の問題なのだ。

最後に、日本万国博覧会については、記録映画「日本万国博」があり、当時の空気を今に伝えている。映画の中に記録されたものについて、ここで触れる時間がないのは残念であるが、特に、開会式と、閉会式のシーンに、日本人が世界の国の人々の訪問を受ける喜び、人々が触れあうこの上ない歓喜と、別離の時の耐えがたいさみしさが表現されている。今はどなたでもDVDを購入できるので、是非お買いになることをお勧めする。

今、日本万国博覧会について考える意味

本日は勝兵塾で、このようにお話をする機会を与えていただき有難うございます。先日私は初めて関西支部の月例会に参加させていただいたのですが、「誇れる祖国 日本」の再興を目指して議論をされている皆様の熱意に触れ、私も、万博記念公園が位置する吹田市の市議会議員として考えてきた、日本万博からのメッセージを皆様にお伝えし、皆様の議論に少しでもお役にたてれば嬉しいと思い、お話をさせていただいております。
私は、日本万博のメッセージには、日本が危機にある時にかならず立ち返えらなくてはならない重要なポイントが含まれていると思っています。繰り返しになりますが、まとめて申し上げます。

まず第一に、日本をどうするのか、という視野ではなく、世界をどうするのか、という思考をし、その中で日本はどうあるべきかを考えるべきだということです。日本万博当時の文化人は、この世界人の視野を持っていました。世界人の視野を持つということは、決して愛国心を捨てることではありません。むしろ、世界を知ることによって、より深く日本のことを愛する事ができるようになると私は思います。

第二に、日本の危機を乗り切るために、是非「人類の知恵への信頼」と「生命の尊重」という二つの言葉を思い出していただきたいと思います。日本の倫理の復活という声は良く聞きますが、日本の知恵の復活という声はあまり聞きません。わたしは知恵という言葉には、倫理の他に、まず、理系的な、科学的な知識が含まれると思います。しかしながら、科学的な知識は、ただ、世界を認識する方法に留まる限り、知恵とは言いません。知恵とは、知識が、何らかの価値観と結び付き、それを実現する手段となって初めて知恵になると思います。その価値観が、今日もっとも力を入れて述べさせていただいております「生命の尊重」です。私は、日本人が、「生命の価値」を本当に思いだしたとき、現在の危機を乗り越える方法が生れてくるのではないかと思うのです。

今、多くの文化人が、日本万博と太陽の塔の歴史的価値に気付き、太陽の塔と万博記念公園を世界遺産にしようという声を上げはじめました。それは、世界の歴史のなかでも特筆すべき日本の戦後の高度成長を記念するためだけでなく、日本が世界の国々に祝福されて再生した時のことをいつまでも忘れないようにするためであり、また、日本万博が発信した、人類にとって大切なメッセージを伝えてゆくためであると私は思います。

そしてもう一つだけ、日本万博では、万国博としては初めて、多くの国の民族舞踊や日本の各地のお祭りなどが集められ、会場の賑わいを生みました。建築や技術だけでなく、祭りや舞踊なども、各国を代表する重要な文化であると考えたからです。そして、日本人としてはじめてユネスコの事務局長をされた松浦晃一郎氏は、各国のお祭りなど無形文化遺産を保護する無形文化遺産保護条約や文化多様性条約など新たな文化保護の枠組みをつくられました。これは日本万博が、間接的に世界文化に対して行った大きな貢献だと考えております。これで本日のお話を終えたいと思います。ご清聴有難うございました。