太陽の塔のあるまちのタウンミーティング

太陽の塔によるまちづくりは可能か?                      

万博記念公園駅・大阪サンパレスホテルにて(2001年8月25日)

            主催 太陽の塔美術館を求める市民の会

プログラム

1.開会
2.来賓者挨拶
3.ビデオ上映 ■万国博覧会
4.リレートーク PartⅠ 橋爪伸也氏●万博によるまちづくり
5.ビデオ上映 ■写真甲子園
6.リレートーク PartⅡ 勇崎哲也氏●写真によるまちづくり
7.ビデオ上映 ■岡本太郎の宇宙―大衆の発見
8.リレートーク PartⅢ 岡本敏子●岡本太郎が太陽の塔に託した想い
9.ディスカッション

    岡本敏子女史・勇崎哲也氏・橋爪伸也氏

    小本 章氏(彩都メディア図書館館長)

    西本 束氏(彩都メディア図書館副館長)

     山口克也氏(吹田市議会議員)

    井澤寿治氏(京都市立大学特別研究員)

10.まとめ
11. 閉会

万博によるまちづくり

橋爪伸也氏

どうも、こんにちは橋爪です。私、そもそも建築の方を勉強しておりまして、初めに勉強しておりましたのが、文化財の保存なんですね。歴史的な建造物の調査をしてそれをその地域の文化財にするとか、さらに、国宝とか、重要文化財にどれを取り上げていくのかということを、勉強しておりました。その現場でかなり疑問に思ったんですね。例えば、平安時代の人の住まいの跡の、柱の穴だけがある、あるいは鎌倉時代の普通の門が、たまたまお寺に残っている。これが素晴らしい立派な文化だと、国の文化だということを学問上では威張るような勉強をしておりました。

でもちょっと自分自身にとっては違うなぁとおもったんですね。私にとって大事なものはもっと他にもあるだろうと。何かというともっとごく身近なずっと子供の時見て育ったようなものとか。要は、街角の煙草屋とか、お風呂屋さんとか、ですね。どんどん壊れていくわけですけれども、そういうものが、消えて無くなってゆく時、何か自分の記憶が壊れてゆくような痛みを感じたわけです。

そういったものの方が、古い鎌倉とか、平安時代のものに対する想いよりも、自分にとっては、すごく強いんだということを、ある時期に確認したことがございます。同世代の友達たちと話をしていますと、我々の世代(私、今年41歳になるのですが)関西に育った人間にとって、今、映像にありました70年万国博覧会というものは、すごく想いのこもった出来事だったんですね。映像の最後に作文がでておりました。「色んな事を教えてもらった。色んな人と出会った」というのは、まさに私自身、その通りの感慨をもっております。

私は大阪の南に生まれ育ちまして、親が建築関係の仕事をしていましたから、万博会場の現場もいくつか親父の会社が関係しておりまして、それを見に行くということが、オヤジのした仕事を見るということが、私自身の誇りでもありました。「たぶん、18回位行ったんですね。

当時の小学生が、みんなやっていた、全パビリオンを制覇、ハンコは全部集める、出来るだけバッジはもらう。あまり展示は見てないんですが、とにかく、全部回ったと言うことが、学校で自慢できるんです。見かけた外国人には、むやみやたらに「サインください。」誰でもいいです「サインください。」これが私にとって当時はじめての異文化人接触だったんですね。子供心にすごく強いインパクトを受けました。

そういう世代同士が集まりまして“現代遺跡探検隊”を1990年、ちょうど万博から20年たった時につくりました。これは高度経済成長の跡を順番に見て回ろうということですが、我々が特に気持ちを入れて調べたのが万国博覧会の跡がどうなったのかということでした。日本中にパビリオンが移築されました。筑波ロボット館ですとか、マレーシア館ですとか、サウジアラビア館ですとか。大きな遊園地に里子に出されたものも多いのです。例えば、(月の石)を展示していたアメリカ館、東京ドームの原型のような巨大なテント構造の建物が売りに出されたんだそうですが、「一円」でという話に、千里中央のみくま幼稚園の園長さんが『だったら買う』とアメリカ館の担当者も『どうぞ、どうぞ』となったんですが、年間維持費が一億円かかるとわかり、ほかの小さな国のパビリオンに変更し、今も幼稚園として使われています。

そういう万国博覧会の断片というか、想いでのかけらが日本中に散らばっていて、それを順番に見て回るというような活動を始めました。1990年頃に“太陽の塔”の中に入れて頂きました。「万博終了後、一般人が入るのは、かつてないことだ。」と怒られながら、入れていただいて後、昨年、万博30周年で若干、限定された業界の方たちと取材で、何度か入れさせて頂いたので、今の“太陽の塔”がどうなっているのかスライドで少し見て頂こうかとおもいます。

(スライド写真4カット程)

というようなパビリオンの探索、跡がどうなったのか?ということで我々の記憶をもう一度呼び戻そうという様な事も兼ねて活動しておりました。振り返ってみれば、万国博覧会は、先程の映像にありますように、まさに、文化的な祝祭の場であったんですね。もうひとつ自分自身の経験から申し上げると、幾つかの新しい科学技術を使った表現の場であったんです。

一番記憶に残っているのは、IBM館でアニメのキャラクター(オバケのQ太郎とか)と自分の物語りとを組み合わせオリジナル物語を創ったことです。今でもすごく印象に残っています。エキスポランドにらくがきコーナーがあったんですね。何を描いてもいいという壁があったんですね。思えば、子供の頃は家の前の道路も、壁も、らくがきし放題の場だったんですが、親が家に居たら「そんなことするな!」と言われました。エキスポランドのおおきな壁は本当にらくがきし放題だったのが、すごく印象に残っています。子供心に科学技術が進めば、「こんなにすばらしいことが未来にはあるんだ。」ということを経験させてもらったという思いもありますし、一方で諸民族、ありとあらゆる民族の文化というものは違うんだと言う事も、確認することができました。また、自分自身を表現する場所も中にあったんだ、そんな風な経験が重なって、我々の世代は、あの万国博覧会に強い思いを、もつのです。

ただ多くの方々、70年代当時生まれていなかった方々も、「太陽の塔はすごい」とか、「万国博覧会のグッズを集めている」とか言う人が、ぞくぞくと現れているので、特に驚きをもってしまうのです。

数年前ですが、横浜のFM放送局が調査をしました。「日本人の記憶に残っている催し物とか出来事は何か、と、現場に行った催し物とか出来事は何か」なのですが、70年万国博覧会が、どの世代にも関係なくダントツの一位だったんですね。東京オリンピックを遥かに抑えて戦後の出来事では、一番印象に残った出来事であったということに、私は驚きました。 世代を超えて、万国博覧会そのもののちからが伝わって行くんだとおもいます。太陽の塔がシンボリックであるように、博覧会自体がそれほどの力をもっていたのではないかと思います。30年経って、40歳なるこの私がいまだに博覧会とイベントの仕事をさせて頂いているのは、あの博覧会があったからにほかありません。

例えば、大阪のある同時通訳の会社の社長さんは、あの万国博覧会で外国人と握手したお蔭で、国際交流の仕事に目覚めて会社を起こしたといいます。我々の同世代にはこういう人が、やたらといるんです。「あの万国博覧会にだまされた世代」などという友達もいますが、次の世代に繋がる偉大な出来事だったのです。

初めに文化財の話をしたのは、例えば、「エジプトのピラミッド」や「奈良の法隆寺」のように形として、未来永劫残るものだけが、文化遺産だと思っておりません。ある出来事があった場所には何かの記憶が残り、それを、次の世代にどんどん伝えていくことが、とても、大事なことではないかと思っています。形を、そのままを、固定する。それは、伝統的な文化として大事だとおもいます。また、色んな出来事が、起こった場所の意義も伝えるべきだと、思います。

つまり、万国博覧会記念公園の中は、いつもその時代の面白い事が、起こっているような場所として、未来に伝えていくことがとても大事な事だとおもいます。90年当時、「現代遺跡探検隊」という活動になかで、ミニコミ誌を通して「太陽の塔を国宝にせよ!」と書かせて戴きました。太陽の塔がいずれ国宝になれば、私が言いだしっぺということで、記録されるに違いありません。

今日は、次のステップを申し上げたいと思います。太陽の塔を含む万国博覧会記念公園を、いずれ世界遺産にする。30年・50年・70年すれば、世界遺産になるのではないか、それ程に、世代を超えて伝えるメッセージを、太陽の塔及び万国博覧会記念公園は持っているのではないかとおもいます。それが吹田市のまちづくりの上で、とても大事な意義を持つものではないかと云うことを申し上げて今日のお話を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。

写真によるまちづくり

勇崎哲史氏

「写真の町宣言」
北海道からきました。勇崎です。只今、東川町の写真甲子園がテレビ放映された時のビデオの紹介がありましたが、写真甲子園に参加している高校生からは、まちの喫茶店もお金を取らないし、鉄工所のおじさんも、作業を撮られたりししても文句を言わないんです。だれも訪れてくれないような、ちいさなまちに、高校生たちが入り込んで、あのまちの人と出会って、その写真が全国各地に“まちのひとたちの姿”として写し出される。ひとつの情報発信の形ができたと思います。

甲子園とはいいましても、誰も撮影しているところを知らない。ギャラリー(お客さん)が取り囲んでいるところで、写真撮影の試合をしているわけではないんです。

東川町での写真甲子園は「写真の町宣言」10周年を記念して始まったものです。

1985年に写真の町を宣言して、祝祭として、東川町国際写真フェスティバルに国際写真賞・東川賞を写真文化の貢献者に授与し、94年から全国高等学校写真選手権・写真甲子園を開催しています。

東川町での『写真の町』創造におけるまちづくり・ひとづくり・暮らしづくりの目的は、この地域で暮らすことの誇りと尊厳、自信を取り戻すことにあります。ちょっとまわりくどい話になりますが、終戦から東京オリンピックを経て70年の大阪万国博に到るまでというのは、戦後の日本の焼け跡から立ち上がり、オリンピック景気に沸き、高度経済成長に続く、長く裏打ちされた誇りと自信に満ちた頂点に大阪万博があったのではないかと思います。

一方、50年から60年代かけて国のエネルギー政策の転換がありまして、産業構造が変わる時、北海道ではずいぶん多くの炭鉱が閉山し、華やかだった地域が町ごと消えてしまうということがありました。70年代にはいりますと、オイルショックやドルショック、円高不況や農業産品の輸入自由化などで、日本の第一次産業は崩壊していくわけです。第一次産業のあった郡部は過疎化し、都市はその分、過密化するという問題を日本は抱えていくわけです。

地方の行う地域振興の切り札は、当時、企業誘致でした。その後の円高や人件費の高騰によって、第2次産業がだめになっていくわけです。第2次産業を担った地方商都市も過疎化していくことがありました。70年代になりますと川崎のナガス市長が「地方の時代」というんですけれども、地方の時代といえば、言うほど、東京に一極化して行く現象がおこったんです。何故こういった「地方の時代」が掛け声だけに終わったのか。

「情報は情報源に集まる癖がある」これは僕の仮説ですが、だからこそ、情報は東京に集中するのです。多くの情報源が東京にある限り、東京の一極化現象は変わりません。

70年代末から、通産省白書に情報化社会の到来が報告されていました。情報化社会というのは、18世紀から19世紀にかけての『産業革命』にも匹敵する変化を社会に与えるという認識が示されています。80年代になりますと、さらに国際化・円高不況・環境汚染・バブル崩壊がおこり、政治の空白の10年が続きました。

70年代・万国博覧会を頂点とする成熟した日本は、モデルとする海外の文化を見失いました。文明開化以来、外国のようにやることが、日本のやりかただったですが、外国にモデルがない時代に入ったわけです。80年ですけれども、亡くなられた当時の大平首相が「文化の時代」を提唱していました。選挙中に亡くなられて提唱もともに霧散しました。総合的な日本文化の中から新しい時代の要請に応えるオリジナルな文化が、今、求められています。

「情報化社会」が産業にどのような影響を与えたかと申しますと、サービスの形が変わっていきます。流通の形も変わって、第三次産業自体も形を変えていきます。「国境のない時代」「ボーダーレス社会」を作っていきます。

19世紀の末、スウェーデンのひとたちは20世紀を「国と国が交流する世紀」だという風に認識していました。20世紀を迎える年に、ノーベル賞を制定するわけです。「写真の町」はこういった情報化社会や、文化の時代の2つのインパクトの時代構想に作ったものなのです。85年に始まった東川町国際写真フェスティバルに国際写真賞をつくったのは、21世紀が「国と国が交流する世紀」を超えて「地域と地域が直接交流する世紀」じゃないか、といった認識の中から出来たのです。

人口7000人の東川町が外国の方に賞を送ることで、非常に文化的な活動をしていると若い人たちによいイメージが与えられたようで、一時、6800人まで下がった人口も8年間で15%アップ・現在7700人となりました。若い人たちが移り住んできています。

今何故、まちづくりなのでしょうか。 かつてひとつのまちには単一の産業が形成され、共通する利害の中でコミュニティーが形成されていました。産業の衰退とともにコミュニティーは崩壊しました。また時代とともに、多様な産業がまちに参入し、それもまたコミュニティーを崩壊する原因となりました。例えば東川町で温泉が2つ掘削、発見されました。それまでの米作りの米作農業のまちに、商店ができて商業があり、そこに、新たに観光が、また、企業誘致に木工業が入ってきて、まちは、おもに4つの産業で形成されました。農家にとっては干ばつがつづくと、雨がほしいと思っていても、観光の人は毎日、天気でありがたい、と感じる。同じ地域に住んでいても相反する利害によってコミュニティーが壊れていくわけです。都市化・核家族化・個人主義の台頭などによってコミュニティーは壊れていきます。

なぜコミュニティーが必要なのか。阪神大震災のときに明らかになったように、町内会(コミュニティー)がしっかりしている地域は生存者も多かったといいますから、台風が来てもみんなで守っていけるのです。どうしても僕たちがいきてゆく上においてコミュニティーは必要です。

「文化とは何か?」

文化とは何でしょうか。僕は、文化とは「価値観」だと考えています。文化という言葉を「~にとっての価値観」という言葉に置き換えてみると理解しやすいと思います。つまり文化の時代とは「価値観」の時代なんですね。吹田市の文化とは、吹田市民の価値観なんです。大阪の文化、あるいは、日本の文化は、大阪の価値観であり、日本の価値観なんです。例えば、男の文化といえば、男の価値観、女の文化といえば、女の価値観なんです。

文化の成果とか、行使というのは、その人間の内部に価値観を作っていくことです。それは、もちろん、反価値観も含めての文化なのです。したがって新しい文化を定着させるということは、新しい価値観を定着させることを意味し、とても時間のかかることなんです。

なぜ文化なのか? 僕は71年から73年にかけて、沖縄を放浪していたんです。ある意味では、今も、続いているんですが、沖縄の離島(おもに、大神島と多良間島)のコミュニティーから学ぶところは、独自の文化がコミュニティーの存続の意味を支えているところです。産業面・経済面から見ると、無人島になってもおかしくない島の中心に、年に一度の厳しい神祭りや、三日三晩踊りに明け暮れる祭りがあり、それを担う若い人たちみんなが、コミュニティーを支えている。文化財とか、保存会とか民俗学的にとかいう形ではなく、生活の延長として存在しているのです。生きていることそのものなんです。その地域で生きて行くことの価値観なんですよ。

産業と経済から逃れることはできないが、その構造に地域を組み込み永遠の振興はできないが、文化が地域を振興させ、やがて新しいコミュニティーが創造されてゆくようになる。東川町のコミュニティーの再生も、今ある4つの産業に頼ったまちづくりではなく、何かの文化によって再生できるんではないかと、考えたわけです。

産業的価値観から離脱して、新しい共通の利害の創出によるコミュニティーの再生。

誰も得しない、かといって、誰かが大きな損を被らない。そういうものを皆さんの文化として見つけられたら、色んな形の共感が集められるんじゃないかと思います。東川町の場合は「写真」というジャンルに特化し、写真文化へとセグメントして地域コミュニティーを結び、情報源となり、小さなまちでも情報発信地になることが、できたんです。伝統に縛られるのではなく、自分たちが今、伝統を創っているという実感あるコミュニティーの創出が、出来ていると思います。

「新しく本来的な日本人像としての岡本太郎氏」

黒船の到来に始まった文明開化、以来、西欧から新しい文明を学ぶために、一旦、日本人であることを忘れる、という国策を選んだ日本。そのまま一世紀以上が過ぎ、一旦、休止ではなく、外国からモデルを盗ってくるだけの日本人になってしまいました。


僕の岡本太郎氏への感動は、「忘れられた日本」に氏自身が書かれた「忘れられた日本人像」の体現を自らなさっておられることです。「縄文土器論」、「神秘日本」、「沖縄文化論」、「日本の伝統」といったものを、ずつと探求し、それをどこかの博物館に収めるのではなく、今の日本人にアートプロジェクトしようとした。

彼こそが、「忘れられた日本人」そのものを、生きようとしているのではないかという感慨を持ちました。本来あるべき、オリジナルな日本人の在り方を、新しく提案するモデルなのではないでしょうか。この、モデルとしての岡本太郎氏に強烈に共感してやみません。
 

岡本太郎が“太陽の塔”に託した想い

岡本敏子

(ビデオを見た後)色んなことやってんでしょう。 ああいう風に一生駆け抜けて生きたんですよね。いつでも、いつでも、本当に瞬間、瞬間、爆発して生きてきたんです。

でも、その最高に大きな爆発は、ここにある太陽の塔でしたよね。しかも、太陽の塔に集まって来る人達、みんな、自分、自分で受け止めたということがすごい。

しかも、今も、それが生きているのよ、今日も・・・ここに来た人は、みんな見たでしょうけど、駅に飾ってある子供たちの絵ね。みんな一枚一枚みんな自分なの!それでいて同じものは一枚もない。しかも、よくまぁこんなこと考えられる、見られるわねと思うように、一人一人ユニークじゃないですか? それがみんな、その子そのものなのよだからね、ああいうのをどんどんやると言う事は、すごく大事なことです。岡本太郎はね、モニュメントとか、壁画とか、そういう公共のものをやるのが、大好きでね。お金なんか、かまわずどんどんやったひとなんですけどね。

ああいうのがね、モニュメントとか、壁画が善いのはね、もう誰も一銭のお金を払わないでね、まるで、自分のものみたいな顔して、「いいなぁ」って言って傍を通ってね、毎日、毎日そこの横を通って居るから自分の中に沁みこんじゃうんだぞ、それがいいんだよ、一銭も払わなくたっていいんだからねってって。

『グラスの底に顔があってもいいじゃないか』を作った時もね、画商さんみたいな人たちにたくさん怒られましてね。「何ですか?これ!ウィスキー一本買えば付いてくるんですよ!こんなもの作るだなんて、自分で自分の価値をこうやって引き降ろして、捨ててっているようなものです。」「これがね、このグラスひとつが、20億円だっていうならそれはいいですよ!ところがね、ウィスキー一本にひとつづつ付いてくるなんて!そんなものを何で作るんですか?」って怒られたんですけどね。

タダの何が悪いんだよ、タダは善いじゃないか。そこに壁に掛かっている絵だってね「私には芸術は解りませんわ」って言って逃げちゃうんだ。これは何億円です、って言うと、何億円ですかって言うだけで絵なんかひとつも見てないんだよ。ところがね、もらったグラスだとね。「ああ良いねぇ」って言って毎日、毎日、使って飲んでるじゃないか。それが芸術んだよ。毎日、本当に毎日、一生懸命働いて帰ってきた人が、芸術なんて思ってもないんですよ。でも、それ、本当に、身体の中に沁みこんで、良いねぇって言ってるわけですね。

でね、今、岡本太郎の生きて、生活して、仕事してたその場所を、岡本太郎記念館として公開しているんですけどね。そこに、色んな人が来て、色んな事、言っておもしろいんですがね。そこに若いお嬢さんが一人来てね、「子供のころ、家にこのグラスがあったんですよ!でもね、お父さんが、お酒を飲むためのグラスで、子供には使わせてくれないんです。“これはお父さんがお酒を飲むグラスです”って使わせてくれないんです。お誕生日とか、何か、お友達が集まってパーティをやる時には、これでジュースが飲めるんです」って、それが、その娘にとっては、すごい晴れの日だっていう感じでね。

あれ家にあったんだけど、何処へいっちゃったんだろうってみんな実際使っていたからね。やっぱり、ガラスだから壊れるでしょうけど、あれが何億円で買ったもんだったら、大事に箱にしまっておくでしょうけど、タダだからみんなつかったんですよ。だから、いま、ほとんど、残ってないらしいのね。でも、そういう風に使われて、その生活の中にその女の子が「あぁ今日はこれでジュースが飲める日だ」って、それ、すごいインパクトなんですよ。

そういうことが、大事なの。芸術は、生活の中に入っていなければいけない、そういう風に、インパクトを与えなければいけない、そういう風に岡本太郎は全身で信じていたからね、だから、(手の中のグラスをかざして)こういうものも創ったし、太陽の塔も創りました。

それから、「モニュメントには一銭もお金を払わなくてもよい。」という後がもっといいのよ。「そう、見なくたっていいんだぞ、すーっと通ちゃってね、全然気がつかなくたっていいんだ。しかもどんな悪口を言ったっていいんだよ。それがいいよ。」いいですよ、皆さんね、太陽の塔をとても大事にしてくださってそれが嬉しいことでね。太陽の塔美術館を造りましょうなんて、運動をやってくださって、というのも私はぞくぞくするほど嬉しいですよ。だけど、全然そんなの関心がなくて見ないで通っていく人だって、それが自分の中に沁み込んで影響を受けているんですよ。だから、何らかの形で皆にポンポンと、ぶつけるということは、とても大事なことなんです。けれども、ぶつけられなくてもみんな受け止めているということはね、これがもっとも大事なことなの。

あのね、青山の街を美術館にしましょうという運動があってね、街中にいろいろ彫刻を飾ったりなんかして、パネルディスカッションをやったんですよ。東京の美術評論家とね、それから大阪の人もよんでね。いろいろ岡本太郎のことについて、語ったのね。そしたらね、ある東京の美術評論家が、「あの時代に太陽の塔ほど浮き上がったものを、創ったってのはすごいことだ。」これは誉めたんですよね。一般の人からまったく理解されないような浮いたものを。創ったってのが、岡本太郎のすごいところだって、その人は誉めて言ったんですけど、そしたら。大阪から来た若い美術家がふっと立ってね、「太陽の塔は、浮いていません。」って、すごい怒ってね、「たとえば、海外なんかに行って、帰ってきてね、ここへ近づいてきて、太陽の塔がパッと見えて来ると、あー帰って来たなと思う。あれはね、本当にこの大地からむくむくと生えてきたもので、全然浮いてなんかいません。」って、怒るのよね。その東京の評論家は、「我々は、東京に住んでいるから受け止め方がちがうのかなぁ」なんて、しょげてましたけどね。そうなのよね、この人たちにとって、あれは浮いていないものだしね。体に染み付いているというよりも、染み付いているとも思わないほど、平気なものなのね。それも、いいじゃありませんか。

川崎に、岡本太郎美術館って、すごい美術館が出来たんですけどね。それね、自然を守りましょう、緑を大切にしましょう、なんていう人たちが、反対運動を起こしましてね。それ、生田緑地ってところに出来るので、「生田緑地は川崎市民にとって貴重な緑地である」って。それが、その人たち何も知らないで反対していてね。最初、代表作を180点寄贈したんですよ。今1800点になったんですけどね。そしたらね、ラジオの生放送でいろんな人にインタビューしてやってたのね。その反対運動について、そしたら、その人たちは枕詞のように、「岡本太郎美術館に反対しているんじゃないんです。でも、市のやり方が悪い」とか、行政の何とかとか、そんならよそでやってくれよと思いますけども、ま、ともかく、岡本太郎美術館というとね、新聞にもいっぱい載るし、テレビもやってくれるし、ラジオにも出してくれるから、いっこうに引っ込みがつかないの。岡本太郎美術館に反対しているんじゃないんですけど、と言いながら、反対しているんです。この生田緑地の中に太陽の塔みたいなものが180本も建ったらどうなると思いますか?」って、そんな程度の人たちが反対しているんですよ。

それが言っていることはぜんぜんめちゃくちゃで、頭も悪いし、観念的でしょうがないんですけれど、そん中に一人ね、長距離トラックの運転手さんが、ひょこっと、出て来てね、「僕は毎日のように、東京と大阪の間を運転していてね、毎晩夜遅く運転しているもんだから、朝方、大阪に帰ってくる」んですって、その緑の中に“太陽の塔”が浮かび上がって来るとね、「あー、帰ってきたなぁ。」と思うと、とても気持ちが安らぐし「いいなぁと思う。あれは、自然の破壊なんかしてないよ。」って、言うのね。その言い方が、ほんとうに実感があってね、反対の人たちは何かで読んだようなことを一生懸命言っているんだけど、あの人のはね、「あれ自然なんて破壊してないよ。」って言ってるの。私とても嬉しくていいなぁと思いました。それは、生活している人の実感なんですよね。

ここにいる人たちは、太陽の塔なんてなんとも思ってない人でも、そういうものが心の中に根をおろしているんですよ。だから、あの子ども達の描いたものもね、今は何の気なしに描いている。それで、何の気なしに描いているからいい絵なんですけどね。でも、あれそのまま大きくなったとしても、たとえ海外にどっかよその国に行って生活しても、それは根をおろしているしね、そういうところがすごい、大事な事なの。

岡本太郎は、美術館がそこに出来ようと出来まいと、知ったこっちゃないと思っていると思いますけどね。でも、少しでも、そういうことを皆にぽんぽんぶつけて、この土地の皆のアイデンティティですね。そういうものがあそこに、根元があるんだぞというのを、自覚すれば、もっとうれしいしね。今、皆知らないで、自覚しないで、やっているんですけど、それでもそれは、根付いているんですよ。例えば、ノートルダムを毎日見て、そこら辺に暮らしている、パリの首都の人たちが、自分のふるさとと思っているのと同じようにね。ここの人たちは、「あそこで、僕は育ったんだよ。」「あそこで私は子どもを育てたのよ。」って思うことは、とても誇りですよね。そういうのがとても大事だと思うんです。だからネ、今日、こんな辺鄙なところに、こんなにたくさんの人が集まるとは思わなかったので、私びっくりしているんですけれども、これだけ、関心を持って下さることは、嬉しいことです。

だから、皆さん一人一人が、太陽の塔を背負って歩いている核だと思って、みんなにそれを、我々は、ここで毎日、太陽の塔を見ながら暮らしているんですよ。ってことをね、すごい大きな声で言っても良いと思うのよね。そうして、広めたら良いとおもいます。ここへ来てすみませんかって。北海道の東川町なんて、どこにあるのか、判らないところが、15%も人口が増えたっていうんですから、すごいじゃないですか。こんなところだったら、何百万人も、(爆笑・拍手)それしちゃだめなんですよ。何百万人も増えると、ろくなことは無いんですから。絞って増やすことですね。太陽の塔大好き、どうしても住みたいって言う人を審査して入れたらどうですか?(笑い)そういうの、いいじゃない?そういう風にして大いにあれを生かしてください。(笑い)「まだいいの?(司会者に)もうそろそろ良いよね!(笑い)「はい、では、・・・」(拍手)

ディスカッション

“太陽の塔”のあるまちのタウンミーティング

(井澤氏)
ただいまから、ディスカッションに移らさせていただきます。先ほどまで、三人の方から素晴らしいお話をしていただきまして、まず、お隣の岡本敏子さんでございます。それから、橋爪先生、勇崎さん、ディスカッションになりまして、新しく御二方、私を入れまして三人、メンバーが増えましたんでございます。三人さまでも一時間、お一人様だけでも一時間で足りないのに、こんなに出て来て、どうなるなるのか、大変混乱しておりますが、今回から、登場して頂きました。

まず、演台の端、この太陽の塔に大変な情熱を傾けておられる、吹田市議会議員をしておられます、山口克也さんです。(拍手)それから私の隣の隣でございますが、彩図図書館(サイト・英語で爆発の意)の館長さん、小本章さんでございます。(拍手)この5人でということでございますが、今日は爆発する図書館の副館長さんの西村さんもお見えでございます。ちょっとご紹介させていただきます。ご起立願います。(拍手)副館長さんでございます。たぶん、今日、おいでの皆さん、興味を持たれて2~3日のうちにはここへ行かれると思いますが、もし、館長が、居られなくても、副館長さん、居られますので、よく、顔を覚えておいて下さい。

ところで、私、自分を名乗り遅れました、井澤寿治と申します。現在、京都市立芸術大学で、日本伝統音楽研究センターというところがございますが、そこで、特別研究員ということでございます。古い日本の音楽を専攻として、勉強いたしております。ですから、新しい太陽の塔と古い文化の接点みたいな事に、今日はなるのかなぁ、と、最初、心配しておりましたが、橋爪先生が、一番最初に私はこんな古いことをやってて、それが太陽の塔に、と結びつけていただいたので、ちょっと、安心してここに座って居るのでございます。」「最初に、爆発する図書館の説明をいただきたいので、恐れ入りますが、小本章さん、手短にひとつ、ご紹介、お願いいたします。」(彩図図書館の案内ビデオ上映)

(小本氏)
僕は、造形作家です。この4月から、図書館長など、慣れない仕事を、若いスタッフの皆さんに助けられながらやっています。したがって岡本太郎さんは、昔から尊敬しておりました。僕が東京時代、1960年頃に、アートクラブという会がございました。そこに入会するのが、当時の若い作家の憧れでした。僕も最後に入れていただいたわけですが、時々、展覧会のパーティなどで、岡本太郎先生にお会いしたんです。その時のエピソードが、ございますのでご紹介いたします。確か、サントリー美術館だったと思うんですが、岡本太郎先生は、大きなお皿を手に、パーティ会場を堂々たる調子歩いておられました。ステージでは偉い方の演説の間、おいしいお料理を食べていらっしゃいました。僕の友人を岡本太郎さんに紹介し、先生のことを友人に紹介するとき、「グレート・アーティストだ。」と僕が言うと、ご本人自ら「グレーテストだ。」と訂正なさいまして、「大変、失礼いたしました。」というような事がございました。今度は女房を紹介しようと、「女房です。」と言ったら、何もおっしゃらないので、聞こえなかったのか、と思いもっと大きな声で、「僕の女房です。」と言ったら、「それがどうした?」と大迫力で叱られたれですね。

でも、縄文土器論など、読んだ当時の画学生たちは岡本太郎さんから大変な影響を受けていました。僕もそのひとりあります。岐阜県の長良川で若い連中が、アカデマン・アーティスト・フェスティバルをやったときも、岡本先生のお考えを活用させていただきました。そんなことで、ここにも(彩図=爆発)、『芸術は爆発だ!』(本を片手に)これ、昨日、読んだばかりなんですが、岡本敏子さんが、お書きになった大変楽しい本です。中を読んで見ますと野球場のアルプススタンドという名前は、子供の頃の岡本太郎さんが、命名されてたんだそうです。そんなエピソードが入っていますので、是非、お読みになったら、良いかとおもいます。

さて、ここに小さなバッチを持っています。太陽の塔のバッチなんですが、とても可愛い。これを付けて歩いていますと、大学などに行って教えていますから、学生たちに声を掛けられて、わぁーカワイイ、ちょうだい、などと言われ今では六っ目なんです。うちの図書館にあります。宣伝をしております。(笑い)今、ごらん頂いたビデオの図書館、すぐ隣です。歩いて30秒、彩図(サイト)図書館、写真・美術・映像など扱っています。蔵書1万8千冊、全部が専門書です。僕が1週間に10冊、目を通しても、30年かかります。毎日、素晴らしい興奮をしています。こういう専門図書館が、吹田市に4月からオープンいたしております。お帰りの際には、お立ち寄りください。目の前に太陽の塔がございます。素晴らしい環境です。

あまり時間がございませんので、簡単に申し上げますと、市民の皆さんが創る、太陽の塔美術館、あるいは、彩図メディア図書館。これは市民の皆さんが自ら創り出していくことが、大前提じゃないか、と。何を申し上げようとしているのかといいますと、いわゆる一般の美術館や色んなセンターには、普及課とか、教育課などがございますが、それは、一方通行のような気がいたします。課員の方々は大変、熱心な活動をしていらっしゃいますが、そうじゃなくて、市民の皆さん自らが運動を起こしてらっしゃる。そのお力を、その姿勢を、是非、私どもにもお分け頂いて、ともに、万博記念公園を新しいメディア発信地にして頂きたいと思っています。もちろん、諸外国でささやかですが、勉強してまいりましたデータなどを、後に申し上げる機会があるか、と思います。最後にまた、P・Rですが、この秋、11月20日に“アートと本のお祭り”を彩図メディア図書館でいたします。是非、みなさんに来て頂きたいと思います。

さきほど、岡本太郎先生の「芸術は爆発だ」という言葉を頂戴して、彩図メディア図書館となったお話をいたしましたが、この一年先には、アジアへ向けて衛星放送をはじめます。単なる爆発する図書館ではなく、世界に向けて吹田市が、「万博の英知と技術文化」の情報発信地となるまで、皆様のご協力とご支援をいただきますよう、よろしく、お願いいたします。ありがとうございました。

(井澤氏)
どうも、ありがとうございました。ここで大変、残念なんですが、岡本敏子先生、次のご予定がございまして、中座なさいます。まだ、ちょっと、お時間がございますので、会場の方、岡本敏子さんに、ご質問がございましたら、お受けいたしたいと存じますが。

(会場を眺めて井澤氏「山辺先生、お願いします。」)

(山辺ケンジ氏)
山辺ケンジと申します。僕も造形活動をしておりまして、現代美術作家として、作品を創り、発表しております。岡本敏子さんの居られる間にちょっと、お話をさせてください。今回、「太陽の塔のあるまちのタウンミーティング」で、美術館というか、記念館的なものを考えておられると聞きまして、僕が駆けつけたのは、吹田市ではありませんが、万博会場にほど近い茨木市で育ちまして、敏子さんの言われたような、太陽の塔の染み付いた人間であるからです。

僕が創る作品も太陽の塔が登場してきたりいたします。というのは、実際の万博のお祭り騒ぎは知らなくて、1965年生まれの僕は、万博跡の取り壊し現場を、よく友達と遊びの場にしていました。そこでぼくが感じたのは、まるで未来の廃墟にタイムスリップして、遊んだ濃い記憶です。時間旅行という経験がぼくの万博の印象です。その経験から後に自分自身の身を守るための装置であるとか、近未来的なサバイバルの装置というテーマで彫刻作品など創ってきました。だから、僕にとって万博の太陽の塔というのは、それほど強烈な体験であったと言うことですね。

この運動を耳にする前から、太陽の塔を実際に使った大きなインスタレーションのプロジェクトを思っていたんです。そういうことも含めて今日の話がどういう方向性に動いていくのか、非常に興味があります。僕もそうなんですが、ここにいらっしゃる、会場の方も、パネラーの方も、太陽の塔 や万博をすごく溺愛されていて、思い入れがあって、誤解を恐れずにいえば、昔はよかった、といったノスタルジックな記念碑的な場所ではなく、何か新しいものを生み出していく場所になればとすごく思うんです。

極端な話、太陽の塔を半分壊して、何かを探り出すような心意気、実際にはそんなつもりは無いんですが、新しいものを創っていければという気持ちがあるのです。これは質問というより個人的な僕の意見なんですが、それこそが岡本太郎さんの意志を引き継ぐ形になるんではないかという、思いがして、パネラーの皆さんがどう考えておられるのか?非常に興味深いことだったので言わせていただきました。」(拍手)

(井澤氏)
どうもありがとうございます。質問は“皆さんに”とおっしゃったんですが、折角、岡本敏子さんがおられますので、ちょっと、すみません、一言、お願い申し上げます。

(岡本女史)
あの、皆さん、ご存知だと思いますけど、山辺けんじさんって方ね、アトムスーツ着て撮った太陽の塔の前での写真作品を発表していて、すごく、良いですよ。ああいう風に今の人が、今の時代の中から、アピールいていくことは、岡本太郎の一番やって欲しいことなんですよ。だから、あぁ太陽の塔あの頃はよかったですね。なんて言われたら、あの人ちょっとムッとするひとですからね。今はまだ言えないんでしょうけど、彼は、計画を持っていらっしゃるしね。もっと色んな所からどんどん出してね。ここが、新しい芸術(爆発)の発信地になると、本当に岡本太郎は喜ぶと思うんですね。その一つの例がここの爆発(彩図)図書館です。それこそ、吹田市にふさわしいのよ。山口さんが、何か色々なことを、やりたがっていますので、山口さんに聞きましょう。

(井澤氏)
「ここでじゃぁ、山口さんから一言」

(山口氏)
本日、「太陽の塔美術館を求める市民の会」と「吹田青年会議所」が共催で、吹田の小学生を対象に行っている「吹田のシンボルを描こう美術展」の優秀作品の表彰式が行なわれました。このタウンミーティングは、その美術展を記念しておこなわれておりますので、私はこのまちを担って行く子どもたちの話をさせていただきたいのです。敏子さんも今、おっしゃったように、私にも、あそこにある絵、ひとつ、ひとつ、が、子ども自身に見えました。こちらから見ているのではなくて、子供たちの描く太陽の塔がこちらを見ているという感覚を受けるほど、本当に生き生きした感性を感じました。

仕事柄、最近小・中学校の入学式・卒業式に出席させていただくのですが、子供の頃、あんなに輝いていた個性が、小学校を卒業し、中学校に入学し、卒業する頃には、いつの間にか、どんよりして、なんだか、可哀想に見えるほどです。今の教育というのは、いったい、何を教えているんだろうか?子供たちは 本当はもっと、もっと自分に自信を持って、出来ることが、身について、輝いて卒業していかなくてはならないんじゃないかって、今の社会は、子供たちに何をしているんだろう?って思うんです。

私は、大変失礼な言い方ですが、岡本太郎氏の哲学や、シンボルである太陽の塔を利用させて頂きたいのです。岡本敏子さんは、太郎さんは、太陽の塔美術館なんか、出来たって俺の知ったことじゃない、っていうだろうとおっしゃったのは、本当にその通りかもしれませんが、しかし、我々は、美術館を岡本太郎さんのために作ろうと思っているのではない。太陽の塔や岡本太郎氏の哲学をどのように発信していけば、まちづくりに生かしていけば、これからの子供たちが生き生きした顔の大人に育つのか、大人達がまちで楽しく生きていけるのかを考えて見ようと思っています。太陽の塔にこめられた、岡本太郎さんの芸術や哲学が、もっと自由に輝いて生きていいんだ、というメッセージが、吹田市に住む子供たちにとって、我々にとって、大切なものだと考えています。

あの子供たちが大好きだった岡本太郎氏は「そうだ」といってくださるんじゃないか?と思っているんです。

(井澤氏)
どうもありがとうございます。いかがでございますか?山口さんの意見について・・・。

(岡本女史)
その通りですよ。

(上田剛史氏)
私は山口さんの政治上の友人です。岡本先生の著作を多くよませていただき、自分自身の考えとたくさんの共通点を感じている者ですが、政治や文化への岡本太郎先生のメッセージをお聞かせ頂ければと思います。」

(井澤氏)
はい、どうぞお願いします。

(岡本女史)
岡本太郎はね、あの高度成長が始まっちゃ時、世界全体が、効率一辺倒、経済ばかりで、突っ走った頃、本当に腹を立てていました。それは太陽の塔がずいぶん加担したから自分のせいもあるんですけど・・・。 それでね、三権分立っていうでしょ?普通は行政・司法・立法だけど、「本当の三権分立って言うのは、あんな卑しいものではない、本当の三権分立は、政治と経済と、そして芸術だ」って言うのよ。「政治と経済は、人間社会にどうしてもなくてはならないものなのだ。それがお互いを、補完しあいながらやって行くのは、当然なんだけど、今、もうひとつ、無条件に生きる人間、それこそ、爆発する人間ってものは、全く無視されている。卑しめられている。ただ、人間というと、広すぎて分からないから、それは、芸術だ。政治と経済そして、芸術というのは、それぞれが、独立し、それぞれが、緊密に協力して行くというような体制を執らないと社会は、全く歪に成る、人間がだめになってしまう。」といって一生懸命、書いたり、言ったりしたんです。

万博以後というものは、そういう言葉は、誰の耳にも入らなくなっちゃつた。いくら儲かりますか?ということしか誰も考えなくなっちゃったのね。それで、爆発なんていうことも、ただのお笑いにされちゃったんです。「爆発オジサン」なんてね。変なジジイで、ちょっと、何か、変わってる人だよなんて、いう風に片付けられていました。爆発っていうのは、まったく無条件で、全く無償で、その瞬間にワーッっとすべてが開く。そういうのが、人間だと言うんです。

それは、政治とも、経済とも、違う生き方で、そういう生き方が等しく、主張しながら互いに緊密に生かしあって、理解しあうことが、政治家には必要です。ところが、今の政治家なんて、あなた、しょうがないじゃありませんか?顔、見たって。(拍手・笑い)だから、ああいう無条件なことをやる人って、私、とっても、貴重だと思うの。あなたも、そのお仲間だったら良いですよ。本当にあの人(山口氏を指して・・・)偉いと思ってんですよ。すごく!」

(井澤氏)
どうも、ありがとうございました。では、上田さん今のご回答で宜しいですか。

(上田氏)
どうも、ありがとうございました。

(井澤氏)
新しい三権分立ができました。それでよろしくお願いします。先ほど質問なさった、山辺さんよろしゅうございますか?」

(山辺氏)
いや、もう・・・

(井澤氏)
十分で御座いますか?申し添えますが、アトムスーツをお召しになって、太陽の塔"の前で写された写真を、今から会場へ回覧いたします。この写真が質問の内容を表していると思いますのでご覧ください。」

(岡本女史)
それをもっと進めてもっと、すごいことを考えていらっしゃるの、期待してください。

(井澤氏)
彼は、放射能を感知する動く造形作品を創った作家ですから、非常に風変わりな、ユニークな、作品をおつくりですので、ご覧ください。ところで、岡本先生、3時になりますが、時間はよろしいですか?ここで、もう一度拍手でお送りいただきたいと思います。(拍手)

(岡本女史)
北海道まで飛ばなくてはならないものですから、申し訳ございません。

(井澤氏)
東奔西走、これから伊丹空港まで向かわれます。皆さん、もう一度拍手を、・・・。(拍手を背に岡本女史、退場)先ほど、橋爪先生に広範囲のお話をいただいたのですが、太陽の塔が世界文化との接点になるという意味をご説明願えませんか?」

(橋爪先生)
要するに、世界に繋がるということは、世界中探しても太陽の塔のようなものが他にないということですね、それが、まさに、この地域の誇りです。あと、もうひとつ、ノスタルジックに言っているわけではないんですが、太陽の塔は今、半分しか、当時の意義を持っていないんです。当時、大屋根の中からニョキッと顔を出しているからこそ、機能的で近代的なものと対峙とした前衛でありました。機械文明に対する、自然とか、大地の力といったものを、太陽の塔は担っていたのです。今、見ると、真南にEXPOタワーが、未来都市として、どんどん増殖していくイメージがして、唯一、響きあっている、二つの違った価値観がぶつかり合っている。大屋根を撤去した段階で、生命の元気の素がむき出しになってしまって、根源的な意味が失われています。さっき、おっしゃったように太陽の塔を対象として、もっと色んな人が働きかけることによって、それが、見えてくるんではないかと思います。岡本さんや、山口さんがさっき、子供たちの美術展についておっしゃっておられましたが、美術展のなかで、子供たちは例えば、寂しそうだから“太陽の塔"にお友達をつくってあげましたとか、多いのは、足を生やして歩かせてあげたいとか、私は、夕日に向かって両手を挙げている後ろ姿に哀愁があって、好きなんですが、百人百様の“太陽の塔"を描きましたが、こう言う事が大事なんです。

自分を見る鏡のようなものは、まさに、地域のシンボルですし、世界に通用する価値なんだと思います。まちづくりから、申し上げますと多くの意見がぶつかり合ってうねりのように、動いていくプロセスが、まちづくりだと思いますし、太陽の塔はそういうきっかけになる大事なものになると思っています。

(井澤氏)
ありがとうございます。次に勇崎先生に、沖縄で出会ったのどかな風習、ウタガキというんですか、今で言う、合コンですね。古代からそれが今も繋がっている意味合いと、30年余り、この地に立って完全に溶け込んできた太陽の塔、この辺りをお話いただきたいのです。

(勇崎氏)
ふるさとのイメージというのは、ただ、生まれたところというのもあるのですが、帰る場所というのもあると思います。ふるさとをもった人が、心の中に描けるランドマークだと思います。プロのプランナーとして、太陽の塔という素材があるこのまちは、非常にうらやましいです。今回の児童画が、証明するように、吹田のシンボルを描きなさいといって、95%のお子さんが太陽の塔を描いているんですよ。つまり、心のランドマークになっているんです。例えば、あれが無くなったら、おそらく、帰るところが消えてゆくというんでしょうか。

北海道でこんなことがあったんですよ。小樽の運河保存の運動がありまして、そのとき、建築的な総合美の価値と、産業道路としての価値との対決になりまして、結局は運河をちょっとだけ残す玉虫色の解決策で、観光産業の人たちにうまくやられてしまったんです。小樽の人が帰るべきランドマークとしての運河という風景は、消えてしまいました。帰るべきランドマークを持っている人たちは幸せで、住んでいる人が気づかなかったり、平気で無くしたりしてしまうと、非常に悲しいことだと思います。

(井澤氏)
はい、良くわかりました。ありがとうございました。毎日、“太陽の塔”を眺めて暮らしている小本さん、ここから、1分で爆発する図書館、外に出たら太陽の塔が見えるある意味で幸せだと、思うんですが、太陽の塔に対する想いがありましたら。

(小本氏)
今、勇崎さんがおっしゃったことに尽きると思うんですが、さっきから、申し上げていますように、吹田の市民の皆さんのアイデアやご意見を伺いたいですね。それが出発点になると、思います。普及活動や教育のレベルじゃなく、色んなジャンルの作家や音楽家の方や一般の方々が自ら企画して盛り上げていく運動こそが、スタートラインだと思います。素晴らしい環境です。太陽の塔があります。このロケーションを活用してください。とりあえずアジアに向けて芸術・文化の情報の発信を、市民運動として是非お願いしたいと思います。

一つ海外の市民運動の体験をお話させてください。海外の美術館とか、芸術センターにある客員芸術家としての予算で長くて半年、短期で3ヶ月ぐらい滞在し、作品を創り、展覧会を開いてきたのですが、ドイツ、スペイン、カナダなど、いってきました。例えば、ドイツのジュッセルドルフの文化局が、10年前に僕を半年、招待してくれました。大変、素晴らしい体験でした。文化局の局長さん、女性の方でしたが、色々お話を伺いました。ジュッセルドルフの美術館で作家が展覧会をする、あるいは、海外から客員芸術家を呼ぶなどを決める委員会があるのですが、行政から2人、事務局1人、残る9人は、すべてアーティストという12人の構成で、その予算を決まるそうです。

それで大丈夫ですか?と通訳さんを通して市長に、聞きました。市長は100年間やっているから、間違いないというのです。すごい伝統ですね。是非そのぐらいのパワーを市民の皆さんにもっていただきたいです。また、カナダのストラップゴーという小さなまちがあるのですが、人口1万7千人くらいの、小さなまちです。シェークスピアの演劇祭が毎夏開かれるまちへ、3ヶ月いきました。そこで、面白い体験を2つしました。1つ目は、着いた次の日に公開制作をやってくれと言うんです。場所は美術館の庭、お客さんは、小学5年生。平日の昼間、美術館の芝生の上で子供たち80人ぐらいの前で公開制作を、やりました。日本から来たというが、どこの馬の骨だか判らないアーティストの制作行為を正規の授業として直接子供たちに見せる直接教育とでもいうんですか、それが、新鮮でした。

それから、もうひとつは、パーティです。なんと、そのまちのご婦人方ひとり、一皿、ケーキとか、スパゲッティとか、サラダとか、自分の得意な料理を、一皿を手に、150人も集まりました。150皿が丸いテーブルにザーッとならんだんです。300人のお客さんがこられても平気です。予算はゼロ。そういう風に市民の方々が美術館を支えている。そのパワーを借りて、美術館長は、あたふた、予算を集めています。そういう逆風のパワーといいますか、それを是非、僕は、皆さんに期待したいと思います。

(井澤氏)
どうも、ありがとうございました。ここで、山口さん、政治家として、また、美術館を作ろうとしているメンバーとして、一言お願いします。

(山口氏)
政治においては、政治家の言う一つ一つの言葉が生命である、非常に重要だと思っていますが、最近のテレビを見ていますと言葉というものが、空疎で意味のないものになってしまって、すごく、悲しい思いをしています。今日は、政治のお話をする場ではありませんので、これぐらいにしておきます。

しかし、逆にこのように言葉を通じて伝えられないとなってくると、物の形だったり、色であつたり、映像であったり、音楽であったりというものが、如何に多くの情報を、伝えているか、これらの力がすごく大事になってくると思います。この太陽の塔という造形物が、ここに存在することで、どれだけ大きな、また、数万言以上の情報が我々に与えられていることでしょう. 太陽の塔をテーマにこれだけ多くの人々が集うことが出来たことが、それを証明してくれているようです。

いままでも、これからも、さまざまなまちづくりの取り組みが行なわれて行くと思いますが、吹田市に住む人々が、政治、経済の分野で行なわれているように、それぞれの主張を繰り替えすばかりでは、街の心がばらばらになり、一体感を失ってしまいます。もし、街の一体感を求めようとするなら、それは、芸術の観点をまちづくりにとり入れなければなりません。

私は、太陽の塔は、素晴らしい音楽が聞き手に一体感を与えるのと同じように、そこに住む人達に一体感を感じさせる事が出切るように感じます。優れた芸術に内在するメッセージにより、ばらばらになっていた感性が、一体感のある統合された状態を取り戻すのです。

まちづくりに、人が集まってくる、祭りの要素が必要だという話はよく聞きますが、住民が一体感を感じるというのはお祭りの最大の良さで、いま多くの人達はこの一体感を求めていると思います。まちづくりに芸術をという考え方は、まちづくりにお祭りを、という考え方と発想は同じですが、まちづくりのもっと多くの局面に影響をもたらすものだと思います。

東川町の活動に参加させて頂いて、写真という芸術を通して、いかに、国際交流がはぐくまれ、心の財産が殖えていくのか、理解させていただきました。そして今、吹田市に芸術によるまちづくりが生まれ、人間同士の大きな触れ合いの場ができ、美しい住み良いまちや、そして国際交流が育まれ、そしてそこで、自信と目的をもったキラキラした子供たちが生まれ育って行く、私はそんなことを夢見て、芸術の街の拠点としての美術館をつくるこの活動を市民の皆さんと続けて行きたいと思います。

(井澤氏)
どうも、ありがとうございました。ここで、あと、お三方、時間もありませんので、一言づつお願いいたします。

(勇崎氏)
例えば、満月と太陽の塔の顔が重なる夜を、年に何日か選び、カレンダーを作って、フルムーンパーティ(お祭り)をすると、出会うことの喜びを知り、太陽の塔が出会わせてくれたというその場との結びつきがうまれ、外側から来た人ほど太陽の塔の素晴らしさに感動すると思うしそれを、多くの場所で語ってくれる。外側の人を巻き込むことで広がりを持つ。先ほどのヤノベさんもお考えになっておられることも、見せっぱなしじゃなく出会う機会を上手に作られればきっといいものになると思います。

(井澤氏)
すみません。橋爪先生

(橋爪氏)
私は太陽の塔を見ると魂が自由になる。「どんなふうに生きても良いんだ」というエネルギーをもらう気がします。元気になってすごく、しあわせな気持ちになります。たぶん、いつも「自由になりたい」という小さな太陽の塔が、我々の心の中にあるんだと思うんです。だから、グラスの底に顔があってもいいけど、皆さんの心に太陽の塔が、吹田市民の数だけあっても良いと私は思っています。その小さな太陽の塔を集めることが、実は美術館をつくる運動だと思います。もっと大勢の自由になれる魂を寄せてゆく活動というのが、ふさわしいのではないかと、個人的には思っています。たぶん、日本中、あるいは、世界中で太陽の塔を見ればみんな幸せになれる。とかいう伝説とか、噂を広めると「幸せになりたいなぁ」「自由になりたいなぁ」という人は、一生に一回太陽の塔を見に吹田に来るのではないかと思っています。(笑い)

(井澤氏)
どうも、ありがとうございました。では、小本さん一言よろしくお願いします。

(小本氏)
万博から30年、この吹田の万博のアーカイブを、図書館が集めています。ご協力いただきたいということがひとつ、もうひとつは、ことし、秋、11月20日に“アートと本の祭り”企画しております。市民の皆さんにチャリティーオークションへ作品を出品のお願いをしております。それによって、万博のアーカイブの予算へと割り当て、情報の充実に当てたいと思います。是非、ご協力をお願いします。

(井澤氏)
どうも、ありがとうございました。本来ですと、会場のお一人お一人に今日のテーマについてご意見を伺いたいところですが、時間がございません。大変恐縮ですがアンケートにご記入いただき、お帰りの際にお渡しください。非常に多岐に渡り、古代から現代まで、30年前の万博の日から歴史は、飛ぶ、範囲は広い、これをどうまとめようかと苦慮いたしております。

元々、吹田市はアサヒビールのまち、鉄道のまち、と言われたんですが、今や地ビール全盛のとき、鉄道と共に、どこにでもあるものとなりまして、残るは、「吹田のシンボルを描こう美術展」参加児童の95%の子供たちが描いてくれた太陽の塔でしょう。太陽の塔のあるまちではなく、太陽の塔のまち吹田、新しいイメージだと思うんですね。これが、今日の子供たちが、出してくれた結論だと思います。岡本先生の新しい三権分立、政治・経済・芸術(文化)を今日、ここから、情報発信すると。そして、太陽の塔は新しい情報発信源となり、吹田市民も潤うんじゃないかと思います。

勇崎さんは遠路はるばる、北海道から、お越しになって、吹田のふるさとのシンボルマークがある。ランドマークがあることを、これ以上のしあわせは無いとおっしゃいました。僕もそう思います。僕も昭和6年、70年前に生まれ大阪は四ツ橋の出生です。ところが僕の心のランドマークであった電気科学館は昨年、無くなりました。もちろん、戦後の焼け跡でも、きれいだった新橋倶楽部も無くなりました。後半生、吹田市に30年住んでいます。そうすると僕のランドマークは何かというとやっぱり、太陽の塔になってしまいました。というところで、今日の結論らしくさせていただきまして、「太陽の塔のあるまち、吹田」ではなく、「太陽の塔のまち吹田」というところで、今日のディスカッションを終わりたいと思います。どうも、長い間お静かにお聞きいただきまして、ありがとうございました。(拍手)

 

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