太陽の塔世界遺産への道を考えるフォーラム               
日時:平成16年8月29日午後1時より3時
場所:阪急エキスポパークホテル

参加者
 小松左京 :作家、EXPO’70テーマ館サブプロデューサー
 岡本敏子 :岡本太郎記念現代芸術振興財団理事長
 橋爪紳也 :大阪市立大学大学院助教授、大阪21世紀協会企画委員
 寺口瑞生 :千里金襴大学助教授、三重県世界遺産学術調査委員
 畑 祥雄 :彩都IMI大学院スクール総合監督、関西学院大学教授
 小山修三 :国立民族学博物館名誉教授、吹田市立博物館長
 大久保昌一:大阪大学名誉教授、千里ニュータウン開発
 川崎 清 :建築家、万博美術館設計
 瀧 光夫 :建築家 福山大学教授、EXPOホール設計
 中村鋭一 :政治評論家、元参議院議員
 渡辺百合 :EXPO’70エスコートガイド・サブリーダー
 国賀雅之 :ホームページ「追想 日本万国博覧会」主宰
 村井正之 :日本画家、日展会員
 上野和明 :大阪府議 文化財保護議員連盟
 松井 聡 :大阪府市民文化部文化課総括補佐
 弓場喜一 :日本万国博覧会記念機構総務部総務課長
 水野   :国立民族学博物館広報企画室
 小林茂木 :千里文化財団常務理事
 武田暢樹 :大阪ユネスコ協会事務局長 
 その他、吹田市議会議員の皆様など67名

 事務局: 松岡要三、鳥海亜哉、山口克也、前田勝行 他7名

 

(司会者)
現在吹田市に住んでいる若者や子供達は、太陽の塔や万博記念公園が、いつまでもこのままであるものだ、と信じています。子供たちに、吹田市のシンボルを描いてみなさいと言いますと、喜んで太陽の塔や、エキスポランドの観覧車を描いてくれます。ところが、近年、太陽の塔や万博記念公園が将来どういう形になるか分からないという話が沸き起こりました。その時に、吹田の若者達から、僕達が吹田市に住んでいるのは、太陽の塔のある街だからだ、なんとしても万博記念公園と、太陽の塔を守りたいという熱い思いをいただきました。私たち事務局は、その若者や子供たちのエネルギーに引っ張られる形で、日本万博について学び、岡本太郎さんや岡本敏子さんの書かれた本を通じて、太陽の塔が、どのような思いで作られたのかを知り、万博記念公園にさまざまな文化施設がどうしてあるのかを学びました。そうしているうちに、太陽の塔や万博記念公園が発信しているメッセージは、吹田や茨木の市民が大切にすればよい、というレベルをこえて、日本中の人達が、あるいは世界中の人達が大切にしなくてはならないものであり、太陽の塔や、万博記念公園は世界遺産になるべきものだ、という思いが込み上げてきたのです。

最近熊野古道が世界遺産に登録されることになりましたが、日本各地で、地域の文化遺産を世界遺産に登録しようという運動が起こり、その運動を通じて、地域の良さや、文化、自然が見直されているケースが増えています。この地域でも、太陽の塔を世界遺産にしようという運動が、地域の文化力の向上に繋がればよいと考える人達もいます。

今日は、多くの人達のご協力を得て、万博の開催、太陽の塔の建設そのものに関わられた多くの人達にお集まりいただく事ができました。また日頃、万博記念公園の運営や大阪の文化行政に関わっていただいている皆様にも、ご参加を得る事ができました。関係各位の皆様に心から感謝の気持ちを申し述べさせていただきたく思います。今から皆様に、太陽の塔の世界遺産化についてお言葉を頂きますが、皆様の温かい気持ちが集まって、この場に新しい道が生まれることを期待し、主催者の挨拶とさせていただきます。

(大阪市立大学 助教授 橋爪紳也)
大阪で1960年に生まれて、1970年の万国博覧会当時は小学4年生で、私の父親が建築関係の仕事をしておりましたので、万博会場がオヤジの仕事の現場だと誇りに思っておりまして、十数回会場に参りまして、ほぼすべてのパビリオンのスタンプを集めました。そして外国人のサインを20ぐらいあつめて、あとバッジとかも集めました。当時の子供達にとってはそれが無上の喜びでした。大学を出て万国博覧会20周年のときに、現代遺跡研究会というものをつくりました。高度経済成長期あるいは戦後復興期のものも、私達にとっては大事な記録であり文化です。そして大阪万博というものは私達にとって大事な文化遺産であり、いまも活動をしている生きた文化遺産だ、と考えました。そこで私はミニコミをつくりまして、“よろずくにひろ”、というペンネームを使いまして万国博とかくのですが、そこで太陽の塔を国宝にせよという文章を書きました。1989年の事だと思います。そこで想定しましたのが、いますぐ国宝にせよということではなくて、戦後の我々の営みを、将来文化庁が文化遺産にする時がくるだろう、その時に今の戦後復興遺産であるとか、高度経済成長遺産を考えた時に、今の太陽の塔や万博記念公園が文化遺産に指定されるような、五十年後に国宝になればいいと、申しあげたんですね。ところが2000年になりまして、「20世紀」という本をまとめている時に、万博記念協会、今は機構ですが当時の朝比奈理事長とお話をさせていただいたときに、理事長が世界遺産にせよと仰る。私の国宝にせよというのは甘かったと感動したことがあります。ところが4月の民博という雑誌で森見さんという作家が、「しょせんは昭和の遺物」という考え方は蹴散らせ、太陽の塔は宇宙遺産だという大きな話をされています。要するに、日本の国の文化遺産と考えるのか、世界遺産とするのか、あるいは独自のジャンルを考えて宇宙遺産とするのか、いろいろな立場の人があると思っています。今日は万博の運営に当初から関わられていらっしゃった先生方に沢山きていただきました。若者の皆さんが、太陽の塔を世界遺産にしようという運動をされていることについて、皆さんからのご意見、思いをお聞かせ頂ければと思います。それでは小松左京先生のほうから、10分くらいで。

(小松)
当年とって73才になってしまいましたが、もう84歳になられましたが梅棹忠夫先生に丁度63年頃に、64年の東京オリンピック、次は大阪万博か、という記事を見せられた。これは堺屋太一が書いたと後で分かったのですが、これは面白いなとおもいました。万博というのは大衆啓蒙用の移動動物園のようなものだ、品の良いものでない。衛生博覧会などというものもあった。しかしパリ万博だとか、丁度私どもが注目した時にはモントリオール博覧会だとか、それの視察団が、梅棹忠夫先生を視察団長として大阪のいろいろな方々と見学に行った。モントリオールを見て、それからその前年に行なわれたこれは公式博ではなかったんだけれど*******の残骸を見て、これはひどいことになっていて、それから足を伸ばしてメキシコの前年に出来ていた民族学博物館を見て、梅棹さんはものすごく感動されまして、博物館というのはこういうものでなくてはならないと。それが民博の基になるんですね。それからハワイに行って帰ってきた。

それから、日本で博覧会をするのであればテーマがいるだろうということで、博覧会を考える会というのが任意団体でやっていたのが、正式になりまして、67年ぐらいにアジアで初めての博覧会ということで、アジアには発展途上国というのが一杯ある、独立国というのは権利があっても金がないだろう、どうせアジアでやるんだったら、島国だとか途上国で財政難だったりするところも助けてやろうじゃないかということで、人類の進歩と調和ということで、進歩は科学技術、人類の文化文明遺産と言う物は何千年、何万年と言うものである、この二つを調和させるということで Progress and Harmony for Mankind とうテーマをさだめてこれで仕事は済んだんです。

しかしこれには博覧会を象徴するモニュメントが必要である。このモニュメントができるのは、第二次世界大戦中、14才で岡本可奈子と岡本一平にパリに放り出されて苦労して帰ってきてシュールというかダリというか、当時前衛的な岡本太郎しかいないだろうという捨て台詞だったんですね。その時は国が岡本太郎などに頼むことはないだろうし、岡本太郎も引き受けることはないだろうとおもっていたが、引受けられまして、しかもそのテーマ委員会を俺のブレーンにつけろと言ったということで、梅棹さんから電話がかかってきて、小松さんやってくれませんか、ということで、僕は梅棹さんやってくれませんか、といいかえすと、梅棹さんは、僕は京都帝国大学の人文化研に入って公務員だということでむりだということで僕がひき受けたんです。

ピカソの有名な絵でゲルニカという絵があった。岡本太郎さんは森の掟という絵を描かれた。日本にもこんな絵を描く人がいるのかと思って、それで推薦したんですが推薦した方でやっぱり協力せざるを得ないということで、出来てきた塔の模型を見たときに、それは丹下健三さんのつくった大屋根に大きな穴をあけてそこから顔をのぞかせている。近代主義のようなものは面白くない、やはり人類のエネルギーを示さなくてはならないといっていた。ここはオフレコにしていただきたいんですけれども、僕はその模型を見たときに石原信太郎さんの小説を思い出して、まるで太陽の季節やなといったら、太郎さんは太陽の季節をしらないから、なに、太陽、それはいい、といってそれで太陽の塔ということになったのです。それはベラボーなものだったんです。

私は出来あがったときはいいんだけれども、あの空洞の部分はいいんだけれども、あの両腕を大屋根のところへ伸ばしてそこに通路をつくってそこに導線をもっていくのは大丈夫かなと思ってたんですね。あのときは、建築は大林だったっけ、地震が多い国やし、あの黄金の顔、片目を占領されたし、片手が落ちたら丹下左膳の塔になるな、と思ったんですけれども。ほんとに立派にできました。そして中身の方をお願いするのに、生命の進化と進歩と、それからそれが調和して未来へというのは未来の大屋根の部分は川添さんにお願いして、地下には、ようつくってくれたと思うんですが、DNAの数兆倍の模型をつくったんです。それで、それからアルタミラだとかマンモスの模型があって、それからまわっていくところはいわゆる進化ですね。アメーバからはじまって恐竜があって、そこから上に上がるとそこは各国の人のポートレート。むちゃくちゃに大きなスチールなんです。あんな大きなスチールできるんかいなと写真屋さんに聞いたら、泣き泣きやりまっさとやってくれたんですね。でもその意味では、それまでの万国博と違うアジアではじめて行なわれた、アジア圏を含んだそれこそ万国博覧会であり、しかもそれがこともあろに、西成のある大阪で、吹田市なんですがやるということで、どんなことになるかいなと思っていたんですが、見事に6500万人入りました。そしてある意味で万国博覧会の歴史を変えたくらいの万国博になったと思っています。それからモニュメントとしては、みなさん万国博のモニュメントで1番有名なのは何かご存知ですか、エッフェル塔?その通りです。あれはまだ19世紀でした。それからそのもう一つ前にロンドンのクリスタルパレスが建築用の大きなガラスができたので、使いました。それから今度の太陽の塔は造形とそれから構造だと思うんですね。それから今はカラみたいになっていますけれど、エッフェル塔と違うのは中身全体が一つの展示館になっているというのは、ようあんな無茶なことをやったなと思いますけれども、すんでからしばらく冷や汗をかきました。実はあれをやったために本当は私は70年前に出来る筈の日本沈没が73年になりました。でもまあしかし、大変素晴らしい経験をしましたし、それから世界遺産ということであれなんですけれども、私が岡本太郎さんとお話ししたとき、太陽の塔について、あんなものは万博が終わったらぶっ壊してしまえばいいんだ。まあ残る物は残るし、壊れるものは壊れる。雲崗の石仏があるだろう、それからスフィンクスを見てみろ、そんなもんでいいんだよ、とこう言っていたんですが、やはり世界も賢くなってきましたですね。ユネスコができたのが千九百七十何年ですか、それから世界遺産というものができたのがそのころですし、日本は確か、92年と言う僅か10年前にこれに入ったんですね。最近ではあの本当に行き難い紀州の熊野古道が世界遺産になったということで、世界の人に見せようと思ったら往生すると思うんですけれど、世界としてそういうものを人類の文化遺産として世界中で、つまりこういうのがでてくるのは、これは世界が国際化時代から地球時代へきたんだとSF作家として想像しています。そのための大きなモニュメントとしてこの太陽の塔をなんとかやっぱりいろいろ維持とかしなくてはならないだろうと思いまして、国の予算というよりも、みんながこれを大事にするという意識をもつために、これを世界遺産の指定を受けたらいいだろうと思いまして、今日ここに老骨をひっさげて登場いたしました。そういうことでございます。皆さんも多いに応援してあげてください。

 それでは続きまして岡本敏子さんの方からお願い致します。

(岡本) 
本日は太陽の塔が目の前にあって、いろいろあのころのことをご存知の小松左京先生や皆さんとお会いしていると、いろいろなことがわんわんと湧いてきちゃって何十時間喋っても足りないくらいなんですけれども、いろいろ思い出が生き返ってくるんですけれども、今日は世界遺産に絞りまして、遺産というのは死んじゃったものですよね。でもね、太陽の塔は全然死んでいないのよ。今日も子供達が吹田のシンボルを描こうっていってねみんな太陽の塔を描いているんです。それがもういい絵なのね。みんな一人一人の自画像それがみんな生きててね、ピンクのビア樽みたいなものから、黄色いもやしみたいな太陽の塔だとか、サッカーやってたりタップダンスやってたり、不思議。なんでこんなイマジネーションが湧くんだろうとおもうんですけれど、それみんな彼らの本当に自分自身なんですよ。そういうふうに、子供達にも大人にも生きている。だからね。遺産にしたいと言うのは、この地域の人にとってはいいことだから水を差すようでわるいんですけれども、今こそ生きているもんなんだよということを下に踏まえてこの運動をやってもらいたいの。

それでね、昔この方が国宝にしようといってたとき、皆が大笑いしていたんですけれど、他にも書いた方がいらしてね、1番誰でも名前をしっているのは太陽の塔だ、だから太陽の塔を国宝にすべきだって言っている人がいるんですが、そうすることによって太陽の塔の素晴らしさがちょっぴりでも増える訳ではないんだからそれをじかに見てもらいたいという事の方が大事ですよね。ここに万博記念機構の方がいらっしゃるかもしれないけど、この前中にいれたのね、そうしたら、1970人当選したんでしょ、そうしたら七万人くらい応募があって、私の周りの人達も皆葉書を出したんだけれど誰一人当たらなくて、万博はあんなこと言って本当は関係者だけ入れたに違いないなんて怒っていたんですけれど、万博協会にあんまり文句がきたので、リターンマッチをやったのよ、その時は1万人募集したんだそうですけれども、今でも凄く人気があって、うち青山で岡本太郎記念館というのがあって、アトリエをそのまま公開しているんですけれども、ここに大勢いろいろな人がきて、万博に行ったんですよ、覚えていますよ、とにかく人が多かった、暑かった、並んだ、だれでもその三つはいうんだけど、何を見たんだか何にも覚えていない、唯一覚えているのは太陽の塔だけだ、と皆言うんですよ。それだけインパクトがあったのね。だから遺産にしてくれなくても十分インパクトはあるんですけれども。このまえ万博機構が中に人を入れてくれたのは、これまで誰も入れてくれなかったんだから大変な進歩ですよ。

あの中にね、あれ凄い展示だったの。あれなんであんな形しているかっていうとね、小松先生そこまでは仰らなかったけどね、最初にその現場につれてこられて、万博協会から説明を受けたときにね、世界中から何千万人の人を集めてもらわなくては困る、その目玉が太陽の塔です、というわけ。ただし、この広場は毎日何百万人という人達が毎日交叉する広場だ。そこに人が止まっちゃって、停滞したら大事故がおこる。だから絶対に渋滞しないようにしてください。岡本太郎さんはユーモラスな人だから、にやにやと笑ってね、あなた面白い事いうね、世界一の鉾と世界一の楯を作ってくださいと言っているんだよ。それを見事に解決したの。みんな下に入れちゃって、広場には何にも置かない。そのかわり、太陽の塔をたてて、あれは中は縦シャフトで交通路なんですよ。人間を上に運ぶための建物。あん中はエスカレーターでずっと展示の間を通って、手を通って大屋根に抜けて人を遠くの方に下ろすのね。だからあそこは人が停滞しないようになっているの。縦の交通路線なのね。腕から大屋根に出すと言ったらね、丹下先生のつくったこのトラス構造の30メートルのあれ人工地盤で都市ですからね。あとから出てきた岡本太郎が丸い穴をあけろ、っていったのね。だから建築家はみんな頭にきちゃって構造計算終わっちゃっているのよ。そしてその穴に腕を出してね、そこから人を入れるというんですけれど、建築家はみんな、やらせろ、やろせろってね、そんなことやって無事に大屋根の中に入れるわけがない。みんなバラバラおっこっつちゃうから、岡本太郎が大恥じ掻くからやらせてみろ、とみんな笑ってたの。皆、真横に腕出してると思っていらっしゃるけど、後ろに引いてんですよ、あれ。だから今見ると、鳥が飛び立つようなかっこしているもの。あれは自分勝手につくったからあんな風になったんでね、建築的につくってないんですよ。で、それがね。大屋根の模型の中に勝手に作った彫刻をはめてみたらほとんど微調整もしないで入っちゃったの。建築家が皆やられた、と思ったのよ。

ただし、その腕を塔につけるのが建築の技法だとつかなかったのよ、もたないのね。それで造船の技法でやったのよ。だから潜水艦みたいに骨が通ってきれいなの。あれ見せたいですよいまでも。そしてそこを通って大屋根の中に入って、大屋根は未来社会なのね。そういうふうに、みんな機能的に出来ているの。ただの彫刻じゃないんですよ。

(小松)
実をいいますと、新潮のファンタジー大賞というものがありまして、この昨年の受賞作に「太陽の塔」というものがあります。これを書いた森見という作家は1975年生まれで、万博は全然知りません。その岡本太郎についても何も知らない作家が、太陽の塔を見て奮い立つ物があると書いている。太陽の塔にはそんなところがあるんです。

(岡本)こっちに住んでる人達は、あれがあるのが当然だと思って住んでいる。だから関西の人が元気なのよ。美術界でも面白い事をやっている人に関西の人が多いんですよ。なんでだろう、って聞いたらそれは太陽の塔世代なんですって。川崎に岡本太郎美術館っていうのができたんですけどね、その時に反対運動の人達が、必ず、岡本太郎美術館に反対しているんじゃないんです、市長のやり方が悪い、とか、いろいろ言って反対していたんですけれど、岡本太郎の作品を185点川崎市に寄付しちゃったんですよ。それを美術館にしようと市長さんが仰ってね、そうしたらね、その反対の人がね、緑地に太陽の塔のようなものが185本も立ったらどうするんですか、とんでもない環境破壊だ、そんな程度の認識で反対しているんですよ。そうしたら、大阪と川崎の間をトラックで走っている人がね、朝方大阪について、森の中から太陽の塔が現れると、ああ帰って来たなと思って、とてもいい気持ちになるんですって。あれは全然環境破壊してないよって、運転手さんの言い方がとても実感がこもってたのね。あれはこの土地に本当に根づいているんですよ、遺産じゃなくて生きているのよ、そのつもりでやってください。遺産もいいけど。

(橋爪)
最近遺産という定義も変わってきまして、例えば、棚田なんかも文化遺産だと、あるいは御堂筋なんていうのも文化的景観で文化遺産だと、銀杏並木もありますし、そこを歩いているOLなんかも文化財だと、そこを使っている人達は文化財だと、そういう人たちもいます。次に世界遺産についてお詳しい、千里金襴大学の寺口助教授より、お話を伺います。

(寺口)
関西では金襴千里という高校が有名なんですが、去年に千里金襴大学ができまして、千里という地名が先頭につく大学は初めてなので可愛がってやってください。さきほど小松先生のほうから、紀州のあんな行き難いところが世界遺産になったというお話があったんですけれども、この3月まで私、あのだれも人のいてないところに住んでおりまして、この4月から街の中に久しぶりに出てきました。もともと関西なんですけれども、この十数年、紀州の方をフィールドとしておりまして、職場も三重にあったんですけれども、たまたま出会った地域がこの4月に「紀伊山地の霊場と参詣道」という世界遺産になって急に脚光をあびたので、その関係で私が呼んでいただけたのかなと思っております。私には、世界遺産とはどんなものなのか、少しだけ話をしろということなのですが、細かな資料としては今日も資料があるんですが、私の行っていた熊野古道というところなんですが、関西の人からすると、紀伊山地と熊野古道というと、すぐに和歌山県のイメージがありますが、事実今回指定された紀伊山地も面積としては殆ど和歌山県なんです。ただ、その中をみますと建築物、建造物もありますが、お寺とか霊場を繋ぐ道の部分のところ、それを熊野古道というんですけれど、本来は京都から、名神の南っかわの城南宮から出発して、淀川を下って、大阪から南に下がって田辺から中に入るというのが本来の道なんですけれども、私がたまたまおりました三重県の方ではお伊勢さんがございます。お伊勢さんへ来た方がですね、ついでだから熊野へお参りしようじゃないか、ということで通った伊勢路が昔からありました。熊野詣と言いますと、貴族のかたが通られる西側の紀伊路、和歌山のルートが有名なんですが、実は歴史的に言えば結構古くから伊勢路の方も歩かれていたという事だったんです。で、その地域は三重県の南部になるんですけれども、本当に全国で少子高齢化が進んでいますけれど、過疎の進んだ高齢化の激しい地域なんです。さきほどから橋爪先生からも棚田が最近注目されているというお話がありました。私のつきあっている地域でも日本一の棚田といわれる一つが三重県と和歌山県の境に比和町という町がありまして、今日本で1番高齢化が進んだ小さな町なんです。昭和5年ごろには1万人ぐらい人口があったのですが、今は役場の数字でも1,700人くらいですから、実数は千2,3百人だと思いますけれど、そのなかの戸数30戸の丸山という地域がありまして、そこの丸山千枚田というのが結構棚田保全の活動で有名なところなんですけれども、そこを見ますと世帯主の平均年齢が75.6歳。子供は全然いないというところもあります。けれど、そんな山の中の棚田のような地域が、実はこの10年ほどの間に、皆で自分達の地域の、自分達にとっては生活道路だったわけですけれども、その道がなんやたいそうなもんらしいで、という話からついに世界遺産になってしまいました。世界遺産にするということについては、いろいろな評価や立場があると思うんですが、世界遺産に至るプロセスの中で、日本で1番高齢化の進んだところや子供の少ないところが、むちゃくちゃ元気になった、ということがあるんですね。世界遺産に至るプロセスの中で、地域がいろんな形で元気になれる要素を持っているというのが、わたしのつきあった紀伊山地が世界遺産になったことの持つ、一つの意味だったのかなと思いました。ただ問題は、世界遺産というのは、ユネスコが1972年に条約を作りまして、日本が20年後に批准したと言う、日本はその意味では遅れているんですけどね。それを実現しようとおもったらさまざまなプロセスがあります。紀伊山地の場合でも10年近い経緯があって、今年の7月1日に認められて、7月7日に登録されたんですけれどもね、手続はあるんだけれども、最終的にそれを実現するかどうかというのは、オフィシャルな面では国なりなんなりがでてくるんですが、やっぱり地元の方が、地域の誇りとして持てるかというのが大きな問題なんですね。実態として地域の方が大事にしてて、ええもんやで、ということをちゃんと仰っていたら、行政なんていうものは後追いでいろいろつけてくれるんですよ。そこに至るまでの地域の方の盛り上がりいかんが道を分けるとおもうので、是非ともみんなで太陽の塔を中心としたまちづくりを楽しくやっていけば、前に進むのかなと、思っております。

千里ニュータウンの設計に携わられた、大久保昌一先生より、お話を伺います。

(大久保)
今日はさまざまに、大阪万博などについていままで知らなかったお話も伺いまして、すっかり洗脳されたというか、とくに奥さんの方から仰った、文化遺産についてのコンセプト、永遠に生き続けるんだと、これは実に立派なコンセプトでないかと思います。これは世界遺産になるかどうかは別として、言葉として世界に発信する価値をもっておると、本心で申しております。

私は悪い事ばっかりしてきましたから、地獄に行くと思います。私は自然破壊の罪で地獄に行くと思います。そこで地獄に行くと閻魔大王様が寝ていて、最近善人が多くなってきたので地獄もひまでな、と仰る。きみは自然破壊の罪だから、地獄の復興計画を命じる、といわれ、血の池地獄は血が枯れているし、針の山は針が折れてしまっている、だらしのない地獄で、よっしゃこれを復興したろと、やっとったんですが、ある日、赤鬼青鬼がやってきて、君に地獄復興計画をまかせたんだが全然はかどっていないと、これでは地獄のスケジュールにあわんから、地獄に用はない、現世に帰れ、と尻をけっとばされた。しかし勢い余って極楽の方にとんでしもうた。そこに万博公園の池のようなきれいな池があって、そばに松が生えておって、天女が泳いでいる、さすがこれはいいとこやなとおもって、松にかかっている羽衣をとってやろおもたら地面が割れて、オートマチックに追放されて、現世に戻ってきたのですが、東洋一のニュータウン、――――大規模ニュータウンの開発をずっとやってきたのですが、千里ニュータウン関係のシンポジウムの組織委員長をした時に、出席者の伊藤俊太郎さんという国際比較文明学会会長さんに基調講演をお願いしに行ったのですが、その講演の中で、文明とは何か、都市とは何かという基礎的な哲学をお話していただきましたが、そのコンセプトから行きますと,太陽の塔とか万博記念公園というものは極めてプレシャス、これはなんとか残す事が、他の自然を破壊してもですね、ここだけは残すという考えでいかなくてはならないなと感じています。そういう意味で、罪深い人間が太陽の塔のような生ける文化財というか、生ける教訓の塔というか人類の塔というかそういうものについて発言する資格はないんですが、あらためて、反省するとともに、小松先生、岡本先生に感謝申し上げたい。

(小松)
大久保先生ね、千里ニュータウンにはあまりに飲み屋がないね。キャバクラとはいいませんが、もう少し皆が楽しめるところを作ってもらいたいね(会場爆笑)

(大久保)
大阪市については、中の島図書館、公会堂、大阪市役所、日銀支店の保存を先頭を切っておこないました。兵庫県は旧兵庫県の庁舎、裁判所、京都は郵便局ですね、その保存を協議しました。その時に感じましたのは建物の保存に関しては、日本人は白紙同然だということが分かった。新しい事が大事だ、先進がいいんだというのが、明治以来の日本の近代化のセンスだと思います。しかし、万博の場合は、敏子さんが仰ったように、遺産であると同時に先進的な文化の要素をもっている。その二面性というか、あたらしいゴールを設定して、それを目的として活動すべきだと思う。太陽の塔については、生きた文化財、永遠に生き続ける文化財として太陽の塔を定義して、いま河合文化庁長官が文化財保護に熱心だから、新しいコンセプトの世界遺産にするべきだと持って行ったらどうか。

(橋爪)
万博の跡地利用については、公園にするか、研究都市にするか議論もあったようですが、万博のエリアの中で先端のことも考えなくてはならないということで、IMIの畑先生からお話を伺います。

(畑)
今ご紹介頂きました、IMIインターメディウム研究所という大学院のスクールを96年に中津の予備校の跡地で立ち上げまして、その後、大阪市から援助して頂いてWTCの21階におりました。その3年間のあと、梅棹先生のご尽力もありまして、万博記念協会の1階にインターメディウム研究所を移設して来ました。分かりやすくいえば、建築で大変中心的な役割を20世紀にしたバウハウスという運動がありまして、デジタル版バウハウスを志して、各大学の助教授クラスが、大学改革が思わしく行かなかったもので、それぞれの大学を超えて21世紀の創造と教育というカリキュラムをつくろうということで集まってきました。講師が中心のNPOのような学校をつくって、全国から100人から150人の大学院生、これは芸術系の人達だけではなしに、工学部だとか、医学部だとか、経済学部だとか、いろいろな分野を出た人がいます。東京ではIMIというと非常に名前が通っているんですけれども、そのなかで、太陽の塔の岡本太郎さんの精神を次の世代にどのように受け継いで行くのかということが、とても大事だなと思っていたんですけれども、若い人達は私達が思う以上に、太陽の塔のある大学にいくんだということで、東京からも大学を卒業して来てくれる、というところがあります。そして万博記念協会の収蔵庫に当時の映画のフイルムだとか、パビリオンの写真だとかそういったものが沢山収蔵されております。そういったものをコンピューターでデジタル化してデジタルアーカイブ化して、オープンにする。これはものすごくお金がかかるんですね。物凄く人手がかかりますもので、これをビジネスとしてデジタルアーカイブ化していこうと思うと、とても大変な金額になるんですけれども、学校は万博記念協会の1階に入っておりますもので、大学院のカリキュラムの一貫として、その70年度万博をもういちどきちんと紐解いて行きながら、それぞれの資料をコンピュータにキーワードをつけて、サムネイル画像、サムネイルテキストをつけて入れて行くことがカリキュラムになっています。これは物凄く生きた教育のカリキュラムとなって、非常に大きな成果を上げてきております。月刊民博の中の5ページにヤノベケンジさんの記事があって、現代美術で日本を代表する作家なんですけれども、僕は太陽の塔に化けようとしていた、という記事ですが、彼は国立国際美術館が中の島に移転する最後のほうのところでヤノベケンジ展という大きな展覧会をいたしました。そしてその展覧会をするにあたってはIMIの在学生がみんなヤノベケンジ組にはいりまして、そのヤノベケンジさんの現代美術のアーティストの個展なんですけれども、その展覧会というのはただ造形物を作ってならべる、というのではなくて、メディアをつかって、マシンをつかって、コンピュータをつかって、総合的に組上げて行かなくてはならないときに、それを裏方として支えたのが大学院生のチーム30人ほどなんですね。かって梅棹先生が提唱されて、京阪奈に国立の総合芸術センターを作ろうという案があったと思うんですけれど、それは非常に大きな計画だったんですけれども、いまは小さくこの千里万博公園の中にすでに小さな芸術センターというものができて、地味ですけれどもいろいろな活動をして、川崎先生にもIMIに来ていただいて、国立国際美術館の建物を建てられたときの由来から、そういったものを大学院生が自分達で川崎先生をお招きしてその当時のお話を聞きたいということでシンポジウムをして、それを映像にとって川崎先生が国立国際美術館で展示会をされた時には、またその映像を提供させていただいた。こんなふうに万博記念公園というのは、さきほど小松先生がいわれたように、6400万人と言うとてつもない人があつまったんですね。普通万博というのは1500万人から2000万人で成功といわれるところを6400万人集まった、その記録は次の上海万博くらいで破られるかもしれませんが、6400万人を集めた場の力というものが、万博記念公園にはあるんですね。その場の力を30年後に私達が万博記念公園に来て物凄く感じています。東京からいろいろな出版社がアーカイブを東京で作るととても高いので、IMIでカリキュラムでつくってくれないかと話をもちかけてくるんですが、その人達がIMIのビジョンルームという太陽の塔が見えるように設計された部屋なんですが、そこで企画会議をすると、みんなとんでいくんですね。もう常識的な枠がどんどん外れて、バンバン面白い企画が出て、東京ではこんなディスカッションは出来ないよね、といいながら帰って行かれる。私達は日々太陽の塔に見守られながら、太陽の塔の恩恵をうけて、成果を上げてきているということを皆さんにお伝えする事が出来ると思います。大事な事は、人が集まる場の力を持った場所がこの万博公園であり、それは歴史的にも証明されている。そして太陽の塔があるために、30年の時代を経てもう一度色々な事の拠点になる可能性をもった、とても大きな場所だなと思います。吹田市や大阪府、万博記念機構だとかそういったところが、関西、大阪、千里にとても大きな財産をもっていることを知っていただいて、これを活用していただくような施策を打ち出していただきたいと思いますので、一つ宜しくお願いいたします。

(小松) 
音楽の分野でもアーカイブを作ってくださいよ。太陽の塔の歌の、ええのが欲しいですな。

(橋爪)
ありがとうございました。それでは、民博で長年お仕事をされていらっしゃいまして、今回吹田市立博物館の館長になられました小山様からお話をいただきます。

(小山)
吹田から逃げ切れると思いましたら、突然今年の6月から館長になりました小山でございます。いろいろ逃げ切れない事情もあったのでございますが、一つは古い町があって、そこにそれなりの文化遺産があって、竹やぶなんかも文化遺産だと思うんですけれど、そこに千里ニュータウンというものが割り込んできて、そこにいる人たちと新しい人達が激しくしのぎを削った、それがどうも融和点というか、新旧市民の対立というものはなくなったんではないか、それから千里ニュータウンに移って来た人達がみんな年をとってきて、ものすごい成熟ぶり、単一の自然発生的な町と比べると、一生懸命はたらいてきて、60歳を越えた人達、そういう人達が沢山いて、その人達を遊ばしてあげる場がここかいな、そんな気がして引受けたんですけれども、見ると聞くとは大違いといいますか、もう今年のことは皆決まっているから口を出さんといてくれ、というそんな感じで、そのなかで、あえてやる必要があるのかな、と思いましたのは、私は二日前にオーストラリアから帰ってまいりまして、昨日青森から帰って来たんですが、よく晴れていて、上空から太陽の塔が見える。この感じはちょっと前にオーストラリアでみたエアーズロックこの感じとおんなじばかばかしさなんですね。世界文化遺産もそう簡単にいくもんじゃなくってね、一番簡単に行こうと思ったら吹田文化遺産でね、これは来年行けますよ(会場 笑い)。
でも世界遺産という大きなものを目標にして活動をしていくのが面白いのかな、と最近覚悟を固めつつあります。

(橋爪)
それでは吹田市在住の日本画家の村居先生から、北摂における美術館の必要性等についてお話いただきたく思います。

(村居)
吹田市に在住して画家としての活動をしております村居でございます。作家の立場で一言いわせていただきますと、大阪、兵庫、京都と考える中で、大阪に美術館は本当に少ないです。今回国立国際美術館が、中の島に移転することになりましたが、残された万博美術館、これは本当に芸術活動に使われるべき、生きている遺産だと思うんですね。大阪には市立美術館がありますが、活動できる場所が本当にすくない。三都市を比べると、人口が多いのに本当に少ないんです。この三十何年の活動で、全国どこでも万博美術館というのがどこにあるかは、知れ渡っているんですね。これはすごい、宣伝効果だとおもうんですね、これだけをとっても、万博の跡地にある美術館というものが、どんなに大きな価値のある物かを考えていただきたい。この美術館がなくなることは、我々作家としても大変残念に感じております。

(橋爪)
それでは次に、元参議院議員の中村鋭一先生からお話願います。

(中村)
元参議院議員という紹介があったのですが、今日は、私は吹田市民の一人として、千里ニュータウンができて移り住んできた者の一人として喋らせていただこうと思うんですが、さっき小松さんが満73才と仰いましたが、わたしも満74になります。こういう年になりますと、言う事は言うとかんならあかんということで、こさせていただきました。1970年,当時私は朝日新聞本社の社会部記者をしておりまして、万博担当でございました。

(小松)
うるさい記者やった。

(中村)
いい記事かいとったんや。(会場笑い)

(中村)
毎日万博に通っておりました。私は子供が二人おりまして、万博当時上は幼稚園、下はまだ数カ月で、記者として取材と同時に空いている日には上の手を引いて、バギー車に下の娘をのせて、本当にしょっちゅうこの万博にきていたんですね。だから、中村家にとってあの1970年という年は、自分が第二の故郷として選んだ、この終生の地であるこの地で万博が開かれて、子供達二人にとっては終生忘れうべからざる思い出を得た、そういう年でありました。そしてこの思い出の象徴が太陽の塔だったんですね。あの太陽の塔が美的感覚から見てこれがええとか悪いとかそういうことではないんですね。第一私にはそういう芸術的素養がありませんので、とにかく、万博ゆうたら太陽の塔や、そういうふうに考えて見ますと、古なったから、新しいもんに変えたほうがいいから、太陽の塔もEXPOホールも美術館もとりあえず潰したらどうや、という考えには私は明快に体をはってでも絶対に許しがたい暴挙としか思えないですね。今オリンピックをやっていますけれども、あそこのアクロポリスの神殿、NHKのオリンピックレポートでは初めにかならずアクロポリスの神殿の柱を映しよりますけれども、2500年たっているわけですね、そう言う風に見てまいりますと、老朽化しているから、古いから、いっぺんごっつい市役所でも建てたろか、それはどうか知りませんで、官公庁の建物でももってきたらどうやねん、どついたろかと、ええかげんにせいと。おまえらはスフィンクスをみたんかと、ピラミッドを見てわれわれの先人が作ったものの偉大さを、後進に伝えて行くのが今生きているものの、120%当然の勤めではないか。ならば、そうでない考えには真っ向から反対して阻止するのが吹田市民としての私の務めではないかとこう思っています。1970年という年は考えて見て、1945年以降地球が1番安定した年なんですね。1970年には殆ど紛争が行なわれていないんですね。イラクの戦争もありませんし、ベトナムの戦争もありませんし、朝鮮の戦争もありません。こまかく調べると、いくつかはあるかもしれませんが、1970年は第2次世界大戦後、もっとも紛争が少なかった年です。平和であった年です。日本は当然ながらもはや戦後ではないといって、もう十数年を経過していました。ソ連がボストークを万博に展示しました。アメリカは人間がはじめて他の星に降りて石を拾ってきて、その石を万博で展示していたんですね。これも人類の歴史で全く初めてのことがこの吹田市でおこなわれた万博であったのですね。わたしは五十数年マスコミの世界にいるものですから、大阪の万博だけではなくて、殆どすべての万博に取材に行っていますが、筑波の科学博、沖縄の海洋博、花博、何度も取材に行っているんです。テレビも番組も何本もつくっているんですが、どうもね、大阪の1970年の、こんにちわの、あの三波春夫の万博とみんなどこか違う、それは小松先生の仰った、6400万人が集まったという画期的な大きさもあるでしょうが、やっぱり、そういうものを総合した臍としての太陽の塔がシンボライズした、太陽の塔が表してくれた、平和と繁栄と、文化と科学と、後世に伝承すべき遺産の数々があったのは実は大阪万博ではなかったのか。他の万博には足りない物がある。それを象徴するのが私は太陽の塔であるとそう思うんです。筑波にも、沖縄にも、花博にも太陽の塔はなかった。どう考えてもああいう万博に我々が終生忘れ得ぬモニュメントがあったとは、よみがえってまいりません。それは1970年のこの万博にしかないんです。であれば、どんなことがあっても私は、太陽の塔や、それに付随するいまのEXPOホールや美術館、そして100万本を超える緑の木々で鳴いているあの小鳥の声、こういうものは吹田市民の財産であります。世界中の遺産でありますから、当然世界遺産に指定をして後世に残すべきである。大体和歌山の熊野古道は、私に言わせたら、国道26号と42号海岸線を通っている国道以外は全部遺産に指定されとる。どこいってもそう。高野山あがろうが、日高山をこえて龍神温泉いこうが全部世界遺産にはいっとる。あんなベラボウな貌漠とした得体のしれんものが世界遺産に指定されて、こんな分かりやすい太陽の塔が世界遺産に指定されない、そんな手はないですね。そのようなことがあれば、私は吹田市民の誇りとして、自分の故郷の誇りとしてそれを残すために皆さんの、市民の先頭に立って闘うとお誓い申しあげたい。こう思う次第でございます。ここに万博美術館の設計者の川崎先生や、EXPOホールの瀧先生がお見えですので、その辺についてお話を伺いたいと思います。

(川崎清)
私は結果として万博美術館の設計という担当になったんですけれども、万博会場計画があって、小松さんが言われたけれども、1970年の7年前くらいから始まって、私が関わったのは1964年か5年かくらいから、会場計画マスタープランの方から、基幹施設、お祭り広場とか、動く歩道とかがあって、そして美術館とかホールとか、そういう経過で仕事をしてきたんですが、その経験から私は建築を単体で見るというんじゃなしに、常に都市的な視野で見るようになって行ったと思います。思い出話というのはいくらでもあるんです。太郎さんが、太陽の塔をいれるんだ、と言って、丹下さんが、岡本太郎さんまあ落ちついて、とか言っている姿が今でも思い出されるんですが、我々は丹下さんの下で、12人の建築家が集まって、キリストと12使徒だというような言い方をしたんですが、いったい誰が裏切るのかとかですね、(笑い)当時文化大革命があって、紅衛兵が非常に力をもった時代なんですね。それで、一二人ぐらい集まって、みんな生意気ですから、誰も丹下さんの言う事を聞かないんですよ。すると丹下さんは、このごろ紅衛兵が強くてね、とかこぼしておられたですね。そんな思い出があります。その時具体的な万博の施設のコンセプトをどうするか、という段になって、小松先生は、未来都市というという初めて出た言葉で、未来都市のモデルをつくるんだ、今までにない都市のありかたをさぐるんだ、それと同時に都市に対する不安がありまして、環境問題についていろいろ検討されて、ローマクラブがそのあとに成長の限界というレポートをだしましたけれども、我々は「進歩と調和」というテーマは先に出ているんで、それをどう建築化するか、ということで、一つは人間が歓喜のお祭りをするということで、お祭り広場、そして岡本先生の言われた通り、そこは道であり、つまり人をさばく道であり、同時にそれがイベントの場である、という機能をもたせて老若男女全部が集まり交流を高らかに歌い上げるそのシンボルの一つが太陽の塔、もう一つが人工知能、コンピューター、真空管でつくったコンピューターですから、一部屋ぐらいあって、人工頭脳と称して、会場の制作から運営までをコンピューターを用いて付随的ないろいろな情報を会場とやりとりしよう、というようなことを考えていました。もう一つ、池は、当時は水循環ということを考えて、会場で使った水を浄水して再利用しようとか、あるいはイサムノグチさんの彫刻・噴水があって、それは我々でいうとクーリングタワー、冷房の水を冷やす装置とよく似ているからそれを使って、池を冷やしてそれを冷房に使おうや、とかいろいろアイデアがあったんですけれど、その中で実現したのは、お祭り広場と、水のほうはいろいろな専門家と交渉したんだけれども、1日最大100万人を超える人の水をそのシステムだけに頼る訳にいかないから、淀川の水をもらってということになって、必ずしも実現した訳ではないのですが、その考え方は、コンパクトシティーというように、循環形都市の考え方につながったと思います。そうして私は会場計画から、美術館の設計の方にも入っていったんですが、私は美術館にも太陽の光のエネルギーとりいれようとか、水のコントロールをしようとか、いろいろな試みをしましたけれども、美術館と言うのは、要するに歴史的建築と現代建築、歴史というのは、作家がもう歴史的になった、つまり近代、明治か大正か、あるいは昭和の初期ぐらいまでの文物、古今東西、古今と言っても何千年前のものから近代のものまで、東西というと幅広い訳で、それを並べる訳で、いろいろな対象の雰囲気を出さなくてはならない、つまりいろいろな仕掛けを作らなくてはならない。現代展示は、ついにはやるのを止めよう。つまり、会場そのものが現代ではないか、それを見ればいいではないか、ということで美術館としては、ガラスのホールになってしまって、現代展示ということは行なわなかったんですが、それが終わって国立国際美術館になり、その改築設計などをしました。昨年の12月から国際美術館を閉める最後の展示をしましたが、この美術館に関わって40年たちまして、この美術館にもっとも長く関わった一人ではないかと思っています。

(瀧先生)
博覧会には千里丘陵で初めて国際博が開かれると言う事が決まってすぐにかきあつめられまして、会場計画はどうするのか、設備はどうするんだ、足はどうするんだ、交通機関はどうなるんだというようなことで、会場の計画の原案作成を誰がするのか、といろいろ偉い先生が集められて、原案作成委員会というものが出来まして、西山有働先生、丹下先生はデザイン系、このお二人がプロデューサーということで入られまして、その下に、川崎先生などが12人コアスタッフと位置付けられまして、その下に、少し年代が下の私達がワーキングスタッフという名前で、カッコイイ名前ですが、実は徹夜部隊でして、調査や、プレゼンテーションの前には徹夜をして働くという役目でした。とりあえず会場を見に行こうじゃないかということで、御堂筋の御堂筋ビルのワンフロアにある原案作成室というところに集められまして、我々はバスで向かいました。竹やぶや畑だらけで、バスの方が、あぜ道や藪の中に絶対入らないように、マムシが沢山いますから、私達はビクビクしながら、川崎先生はヘリコプターでいかれて、あそこからだったらよく分かるだろうなと皆言っていたんですが(開場笑い)

(岡本)
最初に万博に予算がついたのが、まむしとりだったのよ(開場笑い)

(瀧)
ちょっと話がそれそうですが、(笑い)小松先生がやっておられたテーマが「人類の進歩と調和」でしたが、石坂泰造会長、鈴木俊一さん、建設部長が山本やすおさん、------------そんな方々のコントロールのもとに中央のゾーンをシンボルゾーンとし、その中央をお祭り広場としたところで、お祭り広場という名前が報道されまして、---------万博美術館があって、万博ホールがあって、この設計は**さんが中心となってされたのですが、途中で演劇の方を中心になされたので、私がホールの技術責任者ということになっております。180日間毎日変わるイベントに対応する1500人スケールのホールと言う事で、ホールは設計されました。オープニングがフランクシナトラのワンマンショウだったので、舞台が狭いということになったのですが、サミーデービスジュニアに変わって、それじゃあ舞台は大丈夫だとか、いろいろ苦労した訳であります。最初、お祭り広場があって舞台が奥のほうにあったんですが、舞台とお祭り広場を一緒にしたらどうだ、ということになって
結果的にいまはもう池もなくなっていますが、あの舞台の後は幅30メートルほど、舞台の後ろからお祭り広場、太陽の塔の背中の太陽がみえるようになっておりまして、今はシャッターしていますけれども、水上ステージがありまして、水上ステージとステージが連動するとか、お祭り広場をバックにして色々な事が行なわれていたり、などなどが行なわれまして、一つご紹介しておきたいのは、緞帳が堂本りんちょうさん、当時施設参加というのがございまして、いろいろな企業団体が寄贈してくださるということで、担当者が習字を掛けて下さるという話があって、お会いしたら村上山東先生で、どれぐらい面積がいりますか、ずいぶん空いていますので、ということで大作がいまも壁面に飾られているのではないかと思います。そう言う意味で文化財的な意義が万博ホールについてもあるのではないかと思います。

太陽の塔については、丹下先生のところに、最初シンボル的なものが置いてあって、誰かが悪戯したのかと思ってとろうとしたら、それは岡本太郎先生が置いて行かれたんだ、最初は手がなかったもんですから、後に手があって、エスカレーターで内部を通って大屋根の方に上がって行く、私が持っている当時の新聞なんですが、母の塔、太陽の塔、青年の塔の三つを作る、と発表されれいるんですね、太陽の塔を上がって、母の塔から降りてくるとかかれている。人類の発生に至るまでの原始から未来までの大変な仕掛けがしてありました。そう言う意味では、芝生のところにぽつんと太陽の塔が立っているのは、私としては非常に違和感を覚えます。もう少し、周りも再現して何らかの方法で補わないと、今となっては入った事のある人が少なくなってしまいました。

(橋爪)
青年の塔は何年か前まで、エキスポランドに残っておりましたけれども。それでは、もとエスコートガイド・サブリーダーの渡邉様の方から宜しくお願い致します。

(渡邉)
ただいまご紹介にあずかりました、渡邉でございます。わたくしはこの中で当時22才から24才までの1番色々な物を吸収する時期に万国博に携わることが出来たわけなんですけれども、今まで諸先生の方が構想、計画から建築に当たって説明していただきました。私達は何が仕事かということは、まず万国博を海外へPRする、国内へPRする、皆さんも覚えておられるかと思いますけれど、大阪駅や、天王寺駅で、万国博まで後何日ということをずーっとカウントダウンされておりまして、その盛り上がりの機運というものが、市民レベルの末端まで感じた時代で御座いました。そのことを考えますと、あたしたちの世代が1番万国博の会場で仕事をさせていただいた世代ではないかと思うんですけれども、その時の万国博のPRの一つに、万国博は誰でもいける世界旅行というのがございました。その当時は、やはりまだ外国旅行も難しい、いろいろと各地から旗をたててこられた方が沢山おられるんですけれども、見るもの聞くものすべてが新しい、全部が時代の知らなかった事が展示されている、これを自分の五感を通じて体験出来たわけなんですけれども、私達の世代の、各パビリオンを含めれば何十万人と言う人達がそういう機会を与えられたと思います。ハードのことをいろいろお話頂いたんですけれども、その後の人間の結びつきをどうやってつくって行くかが私達に与えられた仕事だったのではないかなと思います。外国から賓客が連日押し寄せられる。それからナショナルデー、スペシャルデー、各県の日、それがお祭り広場を中心に御座いましたけれど、入場料を払ったその何倍もの収穫をもって帰られたのではないかと思います。私自身、あの気分、あの上昇指向というものを今の若い人達につなげて行っていただきたいと思います。跡地は 千里丘陵で、ずいぶんと見事な庭園になっておりますし、スポーツ施設もありますし、私達がエネルギーを燃やした場所が、改めて、人が集まる場所になり、太陽の塔のもとに人が集まるようになればよいと思いますし。また、記念映画も、いつも見れればよいと思いますし、皆が燃えていた、エネルギーを注いだというスピリットが味わえる場所をつくっていただければ幸いです。それから万博グッズなども散逸しないうちに集める事も大切だと思います。

 あの時の交流は、多くの人の人生とは切っても切れないものとなっておりますし、吹田市が選ばれた都市であるということと、こんな場所が日本のどこにも見当たらないということを忘れないでいただきたいと思います。

(橋爪)
会場に来ていただいた方からもお話を伺います。追想 日本万国博覧会というサイトを運営されていらっしゃる国賀さんから一言どうぞ。

(国賀)
みなさん今日は。国賀と申します。私万博のホームページをさせていただいているんですが、どういう内容かといいますと、各パビリオンの再現をしています。その中でテーマ館として太陽の塔の再現をさせていただいたのは、は丁度、太陽の塔の中の再公開をされていた頃で、1日で30万ヒット以上のものがありました。まず横の階段から降りていただいて入り口に入ります。入り口をクリックすると生命の誕生、生命の樹がある太陽の塔の内部をとおって空中庭園に行く、そして空中庭園が終わると母の塔へ降りてくるというホームページをつくっているんですが、その中で反響がありましたのが、地底の顔を兵庫県が持って行ったままどうなっているんや、という問合せが117通ほどありました。僕個人では探す事が出来なかったんですが、そういう形でかなり反響があるということと、万博記念機構さんにお願いしたいんですが、太陽の塔を皆さんご覧になってお土産に子供にでも分かりやすいような小冊子をつくっていただいて販売していただければそれが太陽の塔を皆さんにより親しみやすいものにして、いいと思うんです。テーマ館を再現するみたいな形で、今使われていない鉄鋼館を再利用するという形で、以前マニアエキスポというイベントをしていただいて、素晴らしいものだったので、あういうかたちで、誰でもいつでも太陽の塔の内部とかテーマ館がどれほど素晴らしかったか追体験場所をつくっていただいて、それから皆さんの機運が高まったところで世界遺産に持って行っていただければと思います。有難う御座いました。

(橋爪)
それでは万博の太陽の塔のメール会議から参加頂きました赤堀さんです。

(赤堀)
今日はお招き頂きましてありがとうございます。赤堀と申します。私は実は千里中央に1965年から1975年まで住んでいまして、万博会場が無くなるまでずっと見つづけてきました。万博のあの時のエネルギーが再現されればなと思っております。昨年の一般公開のとき20通手紙を出しまして、壱通だけあたって家族をつれて見に行ったんです。ただ、岡本先生の言葉がありましたけれども、中に入りましてもやはりこれは過去の物だなという感じがしました。子供にとっては、やはりあの上に腕があって、空中庭園に繋がっていたんだと説明しても分からない様でした。あの頃の子供に与えられた夢が今の子供に見せることが出来ないのは残念です。あのころの子供に憧れを与えるような雰囲気を太陽の塔を核にして再現できればいいなと私は思っております。遺産という形でのこさなければ難しいところもあるんでしょうけれど、テーマ館の映像などもかなりすぐれたものがありました。当時は著作権なども今よりもおおらかで、私なんかもかなり撮影しておりまして、そういうのも散逸しないようになんとかしていただきたい。そしてここに吹田市の方もこられているんですけれども、あの当時70年安保ということがありまして、当時万博についてはかなり批判的なことが学校の先生などから言われました。30年たってみますと、当時どういう意味があったか、といいうことを離れて、もっと大きな視点から発言できるものを地域に持っていただければと思います。

(橋爪)
続きまして、最近大阪府議会のほうでも万博施設を保存活用せよという意見書を出されまして、府議会議員の上野先生のほうから。

(上野)
府会議員の上野でございます。今年の5月に大阪府の方でも万博施設を保存活用せよという意見書が全会一致で通りまして、国のほうに上がりました。地元吹田市でも同様の意見書が全会一致で通ったということでございます。やはり1日でも早く太陽の塔が世界遺産になるように私達も頑張って行きたいと思います。

(橋爪)
今後どのようなムーブメントを起こして行くべきかという点でお考えをお聞きしたいと思います。時間が御座いませんので、寺口先生、岡本先生、小松先生の順番で1分半くらいでお願いいたします。

(寺口)
先ほど来、赤堀さん、国賀さんから出ていると思うんですけれども、わたしらは普段二十歳前後の女子学生と接しておりますと、伝わっていないことが一杯あるなということを切実に感じます。ですから太陽の塔を含め、万博公園にはさまざまな楽しみ方があるよという、いろいろなミックスを積み上げて、子供達、お年寄り、色々な世代の方がアプローチできるような工夫が必要だと思います。ホームページやIMIのアーカイブなどはすばらしい取り組みだと思います。

(岡本)
いま太陽の塔は彫刻みたいに見られているんですね。でもあれはもともとテーマ館だったんですよ。地下には生命の根源みたいなものがずっと展示されてまして、そもそもはビッグバンから始まるようになっていたんです。太陽の塔の下には本当に原始生命の
むにゅむにゅしているものがあって、それから生命が進化して魚類になり、恐竜になって人間になって未来社会にでるというストーリーをもって作られているんですね。こないだ人をいれてくださったのは大変あり難いことなんですけれど、入っていって5分間見上げるだけで、しかもそれは廃墟でしょ、遺産ではなくて遺跡ですよ、だから見せるんなら、もう少し中も展示にしていただきたいなと思いました。まあお金の問題とかあるんでしょうけど。でももし、今後復元していくんだったら、少しはそういう方向に動いていただきたいなと思っております。

(小松)
いま美術館でどんなものが展示されていますか。

(川崎)
今は何も展示されていないんですよ。

(小松)
コピーでいいんでね、ムンクの叫びなんかを展示したらいいと思うんですが。

(川崎)
岡本先生が言われたようにね、生きていなきゃいけないというのが大事なんですよ、私は当時跡地利用を何にしたらいいかと言う話になったときに、環境博物館をやったらどうだと言ったんですね。30年前の話ですけれど。太陽の塔の中の生命の樹はあるし、民博はあるし、美術館についても屋外にもスペースが一杯あるんですよ。だから上手く使えば、一大環境博物館ゾーンになると思います。

(小松)
もう一つ僕が心配しているのは、エキスポランドの方がお客が少ないということで、なんとか活かす方法がないのか、という事なんですが。

(川崎)
そういうもので、つないで行けば子供の勉強にもなると思いますけれどもね。それから、美術館やEXPOホールの撤去費用として予算がついているらしいんですが、5億ぐらいの予算をうまくつかえば、よい展示になると思いますが。

(小松)
岡本さんのところには太郎さんの作品がまだ沢山あるんでしょ、たまにはこっちにもってきて展示して下さいよ。僕の1番尊敬する芸術家ですからね。

(橋爪)
時間もまいりました。今後も何らかの形でこのような活動を続けていきたいと思います。

(大久保)
私は文化財の新しいコンセプトをつくって理論化をきちんとやる事が大切だと思いますね。

(橋爪)
この場からフォーラム宣言をしたいというのが主催者の意向であります。原案がありますので、字句の修正がありましたらお願いしたいと思います。生きた遺産という新しい遺産の観念もおり込みたいと思うのですが。

(フォーラム宣言)
(拍手で採択)

(山口)
有難う御座いました。これで本日のフォーラムを終了いたします。

 

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