◆ 山寺で考えたこと(2008年6月2日)

5月の末に、東北を訪れた機会に、昔から、一度は見に行った方が良いといわれていた、立石寺(通称 山寺)に参拝する機会を得た。

水墨画によく描かれている、黄山にも似た巨大な岩でできた山肌の上に、杉やさまざまな落葉樹がうっそうと生い茂り、千段を超える石段が、その木々の中を縫って上り、私を本堂まで導いてくれる。

その石段の脇に、草と名前も知らない可憐な野花に隠されながら、見事な石仏が沢山置かれてあった。その石仏の、すべての苦しみを味わいながらそこから抜け出たような、不思議な優しい微笑みを見ていると、自分の心の中にあった、さまざまな苦しみや怒りや悲しみが、少しずつ溶かされていくような気がした。

火の鳥「鳳凰編」で、手塚治虫が描いた寺は、ここがモデルになっていたのではないかなどと考えながら、本堂の近くまで上がると、階段と、杉と山門が、神聖感のある、落ちついた美しいアングルを形作っている。階段を昇るほとんどの人がそこで足をとめ見入っていた。

本堂で、よくこんな高い場所に担ぎあげたと驚くほど巨大な金銅仏に参拝してから、眺望のある場所まで出た。霞みながら何重にもまわりを取り囲む山々の中に、東北の様式を残した民家や田畑が広がる、のどかな様子を見ることができた。

その時、私はその場所が急に、私が新婚旅行の時に訪ねたバチカンの教会の中と重なって見えた。そこに流れている空気が、教会の中に流れていた空気ととても似ているのに気がついたのだ。あのときのミサの音楽が、耳元で同じように鳴り響くような思いがした。私は、これと似た経験を別の場所でしている。丹波篠山のチルドレンズミュージアムに行った時、そこは聖地、というわけではないが、そこに、非常に温かな、心を包み込むような特別な空気、というか雰囲気が流れているのを感じたことがあった。

そして、私はそのとき考えた。私はイスラムのモスクは、行ったことがないけれど、もしかしたら、世界の聖地という場所には、みな同じような空気が流れているのではないかと。人々の平和と心の平穏を願う気持ちには、人種や宗教の差なんてないのではないかということを、痛切に感じたのだ。問題を起こすのは、宗教を利用して、自分の正統性をあくまでも主張し続ける人間の心の別の働きではないかと思った。

だから、私は、すべての世界の宗教は理解しあえると、心の底から感じた。

私は、蝋燭に「地球温暖化が止まりますように」と書いて奉納した。人間の心の一体性が、現在の苦境から人類を救ってくれることを祈りながら。

 

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